扉を開けると、妙に懐かしい空気に迎え入れられた。

 昔ながらの喫茶店、とでもいうのだろうか。飴色になった木の椅子や机が、味のある雰囲気を醸し出している。落ち着いたクラシックのBGMと、かすかなコーヒーの香り。日曜十六時前という半端な時間帯のせいか、客は少ない。

 予想外の景色に、狛枝は一瞬呆気に取られてしまった。店構えは当たり障りなくシンプルだったとはいえ、意外に甘い物が好きな日向のことだ。女性客で溢れ返る人気のスイーツ店だったりすれば、黒スーツの男性二人組は目立って仕方ないだろう。そんな危惧もしていたのだが、どうやら杞憂だったらしい。

「いらっしゃいませ。お一人ですか?」

 曲線を描くカウンターから、女性店員が笑顔で出てくる。狛枝は我に返って頷いた。

「はい。あ、でも後からもう一人来ます」
「お待ち合わせですね。ではこちらへどうぞ」

 店員は笑顔のまま、出入り口が見やすい窓際の席を案内してくれた。狛枝はメニューを開くまでもなくホットコーヒーを頼み、コートを脱いで椅子に腰掛ける。そうして改めて、さりげなく周囲を観察した。

 奥のカウンターには先ほどの店員と、マスターらしき壮年の男性。客は新聞を読んでいる初老男性、会話に夢中になっている若い男女二人組、夫婦とその息子らしき少年。平和だ、と知らずため息が零れ落ちた。

 例の一連の絶望事件から、世界は奇跡的な復興を遂げた。人口は激減したものの、生活水準はほぼ事件以前にまで戻りつつある。こんな風にカフェで一息などという日常も、もはや当たり前と化して久しい。

「ま、少々贅沢ではあるけどね」

 メニューを一瞥して、狛枝は小さくひとりごちた。輸入に頼りがちな嗜好品は、それなりに希少で値段も張る。コーヒーもその一つだが、手が届かないというほどではない。機関支部の休憩所で薄い出涸らしを啜るより、きちんとした店で本格的に楽しみたいなら、これくらいになるだろうと納得できる範囲だった。

「はあ……」

 もう一度嘆息しながら、背もたれに体重を預ける。特に危険が伴う任務でもなかったのに、なんだかひどく疲れてしまった。それだけ歩き回った証拠かもしれない。

 狛枝が視察団の一員としてこの街を訪れたのは、今日未明のことだった。未来機関は定期的にスタッフを派遣して、各地の様子を調査している。区画ごとに担当を分け、決められた項目をチェックして回る地味な任務だ。

 事前に絶望の残党などの情報があれば、相応の人数と武器が用意されている。つまりそれがなかった今回の調査対象は、視察の名目どおり平和な地域なのだろう。

 そんな予感が的中し、特に何事もなく担当区画を回り終えてしまった。早々に集合場所に戻るか、勤勉に足を伸ばしてみるかと悩んでいたとき。

『予定より早く終わりそうだ。ちょっと一緒に休憩しないか?』

 隣区画の担当である日向から、十五時過ぎに誘いのメールが来た。狛枝も歩きっ放しで疲れていたので、ちょうどいいと了解の返事をする。ややあって送られてきた地図には、大通りから少し入ったところにある店が示されていた。

『十六時に、ここで』

 以前この近くを視察した小泉や澪田に、おすすめの美味しいカフェだと聞いたらしい。女性陣の推薦ということで、嫌な予感もしていたのだが。

「お待たせしました」

 ほどなくして運ばれてきたシンプルなコーヒーカップに、狛枝はほっと口元を緩めた。

 本当に、若い女性が好みそうな店でなくてよかった。ただでさえ目を惹く容姿だといわれる狛枝が、場違いな店にいれば尚更だ。目立つのも騒がれるのも苦手だし、何より落ち着かないし居たたまれない。この雰囲気なら、仕事の休憩がてらに訪れる会社員男性も珍しくないだろう。

 安堵と共に口に含んだコーヒーは、まろやかな苦みで舌を楽しませてくれた。なるほど、これは常連客も多そうだ。内装やインテリアからして古い店のようだが、例の絶望事件には巻き込まれずに済んだのだろうか。

 いや、影響は皆無ではなかったはずだと狛枝は推測する。あの絶望は世界中を巻き込んで、あらゆる破壊と殺戮を繰り返した。もしかすると大勢の人に支えられながら、以前どおり営業ができるまでに再建した結果なのかもしれない。

 そんな想像と共に店内を眺めると、ここでのんびりと午後を過ごせることが奇跡のように思えた。未来機関の支援や援助も、地方や末端まではさすがに行き届かないことがある。だが絶望を克服した人々により、街が復興を遂げた例は多い。それは誰もが希望を捨てず、希望と共に歩んだからこそ。

「希望、かあ……」

 かつて盲信していたその概念を噛み締めて、狛枝は無意識に目を細めた。誰の中にも、自分自身の内にも希望はある。そう教えてくれたのは日向だった。思えば、彼との出逢いも奇跡だといえる。こんな未来が待っているなど、あの頃は夢にも思わなかったのに。

「いらっしゃいませ、お一人ですか?」

 店員の声に顔を上げると、その日向が入ってきたところだった。人のことは言えないが、やはり黒いスーツの長身は遠目にもよく目立つ。

「いえ、待ち合わせで……あ」

 日向は店内を見渡して、狛枝を見て笑顔になった。お連れ様ですね、と店員がすぐに席を促してくれた。

「悪い、待たせた。ええと、同じコーヒーお願いします。あ、これとセットで」

 メニューを広げた日向が、今思いついたといったように指差している。覗き込むとケーキがずらりと並んだページで、狛枝はこっそり苦笑してしまった。

「ほんとキミって、見かけによらず甘党だよね」
「なんだよ、見かけによらずって」

 唇を尖らせる日向に、曖昧に肩をすくめておく。彼は草餅が好きでも桜餅は嫌いだから、一概に甘い物好きというわけでもないのかもしれない。

「視察、どうだった?」
「どうもこうも、平和すぎて退屈」
「平和に越したことはないだろ」

 注文を待つ間、報告がてらに軽い雑談を交わす。最近は似たような任務が多く、平和ボケしてしまったような気分だ。そう話すと、まあなと日向は苦い顔になった。

「国内はどこもこんな感じで、もうほとんど心配ないらしい。あとは海外だな……」

 どこか遠い表情になっているのは、出張中の仲間に思いを馳せているからだろう。元王女のソニアや元極道の九頭龍、そのSPである辺古山などは、海外での活動が中心になっている。場所によってはまだ危険も多く、復興も遅れがちだ。

「そうだね。でもボクたちは、ボクたちにできることをやるまでだ」

 暗に釘を刺す口調で、狛枝はきっぱりと言い切った。かつてありとあらゆる才能を手にした日向も、例の一件により今や単なる一般人である。世界中を飛び回って活躍する仲間たちに、引け目のようなものを感じているとしたら。

「そうでしょ?」

 榛色の瞳をまっすぐ見つめて、強く念を押してやる。一瞬目を丸くした日向は、やがてゆっくりと笑顔になった。

「お前に諭されるとは思わなかった」
「何それ」

 どういう意味だとばかりに、不満を込めて眉根を寄せる。今度は日向が無言のまま、曖昧に肩をすくめる番だった。

「お待たせしました、ホットコーヒーとガトーショコラです」

 朗らかな声で、店員がカップと皿をテーブルに置いてゆく。褐色のケーキを飾る粉砂糖に、模様を描くチョコのソースと、添えられたイチゴやベリー類。いかにも女子が好みそうなスイーツを見て、狛枝は思わず呆れてしまった。

「何を頼んだのかと思えば、チョコレートケーキ?」
「ついさっきまで忘れてたんだから、仕方ないじゃないか」

 日向はそう言いながら、何故かその皿を狛枝の方へ滑らせてきた。狛枝がきょとんとしていると、気恥ずかしげに視線を逸らして。

「ほら、その、今日はバレンタインだろ。奢る」
「…………は?」

 どうやら自分が食べるのではなく、狛枝のための注文だったらしい。理解はしたものの、頓狂な声が出てしまった。

 そういえば二月十四日だったかと、遅れて日付を認識する。去年は機関の女性からそれなりにチョコを渡されたが、今年はまだもらっていないせいか失念していた。出張を終えて支部に帰れば、待っていたかのごとく押しつけられるだろうけれど。

「え。でも……」

 柄にもなく動揺して、言葉を失ってしまう。バレンタインに興味はないし、甘い物も得意ではない。そんなもの菓子業界が仕掛けた前時代のイベントで、輸入が復帰した近年もカカオはまだ高級品で、とはいえ。

「……まさか、キミにもらえるなんてね」

 全く予想していなかっただけに、じわじわと喜びがこみ上げてきた。なんでだよ、と日向が苦笑する。

「俺だって一応、イベント事くらいは覚えてるぞ」
「そういう意味じゃなくて……そりゃあ、友チョコってのもあるらしいけどさ。男だったら普通、渡すよりもらって当然だと思わない? 自分があげるんじゃなくて、ボクからもらおうとは考えなかったの?」
「へ」

 ぽかんとしている日向に、ああそっか、と狛枝は首を傾げてみせた。

「日向クンは、毎晩のようにボクに思い知らされちゃってるもんね。自分がチョコを渡す方、つまり女性側の立場だってこと」

 わざと揶揄を込めて、意味深に口角を上げてやる。日向は一瞬絶句してから、みるみるうちに真っ赤になった。

「ばっ……お前、何言って」
「何って、事実じゃないか」
「そ、そこまで考えてるわけないだろ? 俺はただバレンタインはチョコをあげる日だなって思って、でもさっき気づいたから用意できてなくて、だから」
「うん、ありがとう。女性が好きな男性にチョコで想いを告げる日、だもんね?」
「ッ……!」

 日向はぱくぱくと口を動かすだけで、言い返す言葉が出てこないようだ。やがて諦めたらしく、深いため息を吐き出した。

「ああもう、覚えてろ。来年はお前がチョコを用意する番だからな!」
「別に、順番制にしなくても……せっかくだから、一緒に食べようよ」

 憤慨する日向に笑いを堪えながら、狛枝は先ほど共に運ばれてきたナイフとフォークを手にする。ケーキをちょうど半分になるよう縦に切り分け、にっこり笑って。

「はい、半分こ。これで割り勘にすれば公平でしょ? どっちが渡すかもらうかなんて、主張する必要もないよ」
「……」

 日向は何か言いたげだったが、脱力したように首を振った。まだ赤い顔をごまかすように、半分に分けたケーキを早速口に運んでいる。美味しかったのか満足そうに蕩ける表情を、狛枝は微笑ましく見守った。

「……なんだよ」

 視線が気になったらしく、日向がぶっきらぼうに訊ねてくる。悪戯心をくすぐられて、狛枝は思いつきをそのまま告げた。

「うん、ちょっとね。今ここで日向クンにキスしたら、どんな味がするのかなって考えてた」
「ぐ」

 日向は軽く喉を詰まらせつつ、案の定恨みがましげに睨みつけてきた。にこにこと笑顔で受け止める狛枝に、ケーキを指して促してくる。

「下らない妄想してないで、お前も食べてみれば味がわかるだろ。甘さ控えめだし、結構美味いぞ」
「そうだね」

 それじゃ、いただきます。

 言いながら、狛枝はフォークを持たずに身を乗り出した。目の前のケーキではなく、想像どおりチョコが香るに違いない、その唇を味見するために。

「違う、俺じゃなくてケーキだケーキ!」

 そんな風に、また真っ赤な顔で怒鳴られることを期待して。











キスとチョコレート
20160214UP


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