部屋の奥から聞こえてきた音に、ボクはふと顔を上げた。 『それでは四月二十八日、今日これからの天気です』 単なる音でしかなかった若い男性の声が、遅れて意味のある言葉を成す。どうやら付けっ放しになっていたテレビの、ニュース番組の一部らしい。さっきまで全く気にならなかったのに、一度意識するとうるさく思えるから不思議だ。 『日本列島は前線を伴う低気圧が通過するため、広い範囲で雨となるでしょう―――』 淡々としたキャスターの予報が、すっかり乱れたボクとキミの呼吸に絡む。各地の詳しい天気とか、降水確率とか、気温とか。今のボクたちには、特に差し迫って必要な情報ではない。 リモコンは確かテーブルの上で見たと、ボクは上半身を起こして探そうとした。けれどすぐに腕をつかまれて、元の体勢に戻ってしまう。 「……日向クン?」 不思議に思って見下ろすと、キミは小さく首を振ってみせた。そむけられた顔は耳まで真っ赤だ。 「そんなのいい、から」 消え入りそうな声が、先を促して紡がれる。気にするなと言いたいのか、テレビの音でごまかしたいのか。寮の壁はそんなに薄くはないけれど、今は場所が場所だ。外に聞こえるかもしれないという不安を、少しでも和らげたいのかもしれない。 何にしろ続きを許可されたみたいで、ボクは嬉しくなってしまった。一方的ではなく、キミもボクを求めてくれている気がしたからだ。 「……うん」 喉を鳴らして頷いて、準備に集中することにする。勢いのまま始まったこの行為も、もはや後戻りできないところまで来てしまった。ボクはもちろん、最初は明らかに戸惑っていたキミもだ。 困惑して当たり前かと、ボクは他人事のように回想した。おかえりの挨拶もそこそこに、帰ってくるなりいきなり玄関で襲われたのだ。襲うという表現には語弊があるけど、キミの方は正にそんな気分だったに違いない。 ボクはボクで、この予想外の展開に驚いていた。まさか靴を脱ぐのももどかしく、キミを押し倒すことになるとは思わなかった。だって、こんなはずじゃなかったんだ。ドアを開けるまでは、深呼吸しながら色々考えてたのに。まずは明るくただいまを言おうとか、出迎えてくれたキミに笑顔を向けようとか、それなのに。 仕方がないじゃないか。なにしろ三か月ぶりなのだ。 誰に聞かせるともなく、内心でそう言い訳をする。仕事に追われるばかりの出張は、恋人と再会できる日を楽しみにするしかなかった。四月二十八日。偶然にも帰国と重なった今日、ボクの誕生日を。 本当は日付が変わるまでに、つまり二十七日には帰る予定だったんだけど、手続きが長引いて少し遅れてしまった。深夜になるから先に休んでいいよって連絡したにも関わらず、キミは起きてボクの帰りを待ってくれていたのだ。ボクが勝手に愛の巣と呼んでいる、未来機関独身寮の自室で。 キミのことだから多分夜食とか、誕生日用のケーキとかも用意してあるに違いない。おかえり、狛枝。変わらないその笑顔を見た途端、なんだか愛しさが募ってしまったボクは、気がつけば腕をつかんで引き倒していたのだった。 もちろん、やんわりと抵抗された。帰ってきたばかりだし、玄関だし、落ち着けって苦笑して肩を押された。でもとにかくキミに触れようとするボクの様子が、よっぽど切羽詰まって見えたのかもしれない。キミは諦めたように脱力して、今に至る。 ローションの類を取りに行くのは面倒だったので、唾液とキミの先走りで丹念に解してゆく。一度吐き出せば精液も使えるだろうけど、ボクはようやくの一回をキミの中で出したかったし、キミをそう簡単にイかせたくもなかった。耐えれば耐えるほどキミが敏感になること、なりふり構わず乱れて縋りついてくることを知っていたからだ。 「狛、えだ……ッ」 「……声。抑えた方がいいんじゃないかな」 悲鳴混じりの呼びかけに、ボクはキミの耳元で進言する。 「残業帰りの誰かが、廊下を通らないとも限らないし。ね?」 「……っふ、ぅ」 キミはぐっと息を詰めて、強気にボクを睨み上げた。けれど態度とは裏腹に、ひくつくキミの中は嬉しそうだ。真面目かつプライドの高いキミは、羞恥を煽る言葉にわかりやすく反応してくれる。 外に聞こえるかもしれない、お尻に指を突っ込まれて悦ぶ変態だってばれるかもしれない。そう重ねて囁けば、涙目になって顔をそむけるのだろう。そのくせ感じやすくなって、今まで以上に良い声で鳴いてくれるのだ。それは元々被虐的な趣味があったからかもしれないし、ボクがいつの間にか誘導して歪めてしまったせいかもしれない。 「緊張で、興奮する?」 「うる、さ……」 知らず口角を上げて、ボクは乾いた唇を湿した。乱れた衣服の間で、どろどろに濡れたキミ自身が揺れているのが見える。埋めた指を動かすたび、溢れて零れる透明な粘液。 全部脱がさなかったのは、単にその手間が惜しかったからだった。部屋着代わりの地味なシャツも、見慣れた桜柄の下着も、最低限捲ったり下ろしたりしているだけ。玄関という場所も相まって、その中途半端な格好は妙に艶めいて見えた。ボクが対照的にスーツを着込んだままだからか、なんだろう、出逢い頭の強姦を連想させる。そんなことを言えば、また真っ赤になって怒られるかもしれない。 それを無理やりねじ伏せるのもいいなと思いながら、ボクは溢れかけた唾液を拭った。背中や腰が床に当たって痛いらしく、時折歪むキミの表情にも興奮する。素直になった方が楽なのに、キミは頑なに耐えるばかりだ。 「っ、く」 噛み締められた声に、ボクは深く嘆息した。こんなところで盛るなとか、せめて場所を変えろとか、普段なら強く文句を言われているに違いない。そうしないのはきっと、今日がボクの誕生日だから。 誕生日か、と改めて意識する。特別な日に特別優しいキミも好きだけど、三か月ぶりという理由の方がボクとしては嬉しい。だって一年に一度しかない誕生日の日だけなんて、淋しいじゃないか。でも仕事で忙しいのは日常茶飯事だし、最近は長期の海外出張で離れる時間も多くなった。帰ってくるたびこうして好きにさせてくれるなら、ボクは会える日を思ってパブロフの犬みたいに発情してしまうだろう。 「こ……ま、ッあ!」 キミが何か言おうとしたタイミングで、ボクはわざと抉るように指を動かした。跳ねる身体を押さえて、同じ場所を繰り返し刺激する。物欲しげなくせに逃げようとするのは、理性が捨て切れないせいか。 「あ……そ、そこ、やめ……っ!」 「でも、好きでしょ?」 「違、ぁ」 そんな媚びるような目と声で訴えられても、全く説得力がない。そもそもキミを開発したのはボクだ。どこが気持ちいいのか、どうすれば悦ぶのか、知り尽くしてしまっているのだ。 「違うの? そっか」 強情なキミに煽られて、ボクはゆっくりと指を引き抜いた。離すまいと吸いつく感触を惜しみながら、キミの顔を覗き込む。 「じゃあ、やめちゃっていいかな」 「ッ……」 一瞬真に受けて愕然とする表情と、遅れて睨んでくる瞳。ボクの嘘なんて見抜けるはずなのに、いちいち反応するキミが可愛くてたまらない。 「そんなの無理だよね。だって、今日はボクの誕生日だもんね?」 普段からボクに甘いキミが、今日という日に拒めるわけがないのだ。念を押すように言うと、キミは何度か荒い呼吸を繋いだ。そうして覚悟を決めたように、うっすらと唇を開く。 「わか……ってるなら、さっさと、入れろって……」 ぶっきらぼうなその口調に、ボクは思わず吹き出してしまった。キミがあまりにもキミらしさを貫いていることに、相変わらずだなという安堵すら覚える。とはいえ強気の照れ隠しも開き直りも、ボクを煽る材料でしかない。 「えー。可愛くおねだりしてほしいなあ」 キミはぶんぶんと首を振って、手の甲で自らの口を押さえている。冗談じゃない、という意思表示だろう。 「してくれないの? 早く奥まで来てぐちゃぐちゃにして、とかさ」 「だ、誰がそんなこと」 「うーん、でも思ったより柔らかいね。もしかして、自分で慰めたりしてた?」 「しっ……」 してない。そう言いかけたのだろうキミの足を、ボクは乱暴に持ち上げて開いた。表向き余裕ぶってはいたけれど、本当はもう限界だったのだ。事実焦って取り出した性器は、キミのことを笑えないくらいに勃ち上がっていた。 右手を添えて角度を探って、濡れた先端を押し当てる。早く、とキミが小さな声で喘ぐ。いつもはそんなことすら言わないくせに、一応はサービスしてくれているのかもしれない。無意識だとしたら、同じくらい切羽詰まっている証拠だ。 ボクと離れていた三か月間は、キミにとっても耐えがたいものだったのか。そう思うと、今回出張を命じてくれた上司に初めて感謝した。不運が幸運の糧となるように、絶望が希望を育てるように、会えない時間と距離がより燃え上がらせてくれる―――なんて言ったらまた怒られそうから、言わないけど。 「あ、あ」 あくまでもゆっくりと、負担を掛けないように身を沈めてゆく。理性では優しくするつもりだったのに、本能が急いて拒んで抑えきれない。久しぶりに味わうキミの内が、狭く熱く誘い込んでくるのも悪い。ボクは無自覚のまま腰を進めて、強引に深く押し進めた。苦しげなキミの悲鳴は遠く、ただその心地良さに溺れた。 「は……あ……ぁあ……」 キミは顎を反らして、断続的に小さく痙攣している。ボクが最奥で留まったときは、どこかうっとりとしたため息を吐いた。感じているのだろうかと思うと、一気に下半身が重くなる。今すぐ腰を振って貪って、吐き出してしまいたくなる。 そんな欲望を辛うじて抑えつけたのも、ボクの中に巣食う別の欲望だった。だって、もったいないじゃないか。前戯がおざなりだった分、じっくりキミを溶かしていかなきゃ。こんな場所で強姦じみたセックスに耽る、背徳感を楽しまなきゃ。 場所を意識すると、改めてベッドとは違う冷たさと硬さを感じた。綺麗好きのキミらしく、フローリングに目立った埃などは落ちていない。倒れたときに飛んだのか、不揃いに引っくり返っているスリッパが滑稽だ。煌々とした照明と、まだ聞こえてくる深夜のニュース。キッチンに面した玄関は、互いに手足を伸ばせないほど狭い。 帰ってきたんだと、ボクは今更ながら実感した。一度滅びた世界もほぼ復興し、激減した残党の数に比例して治安も回復した。元絶望だったボクたちも、未来機関の寮でそれなりに平和で忙しい日々を送れている。とはいえ。 噛み締めた幸せに、思いがけず泣きそうになった。キミがそばにいてくれる、当たり前の日常が愛しい。帰る場所があること、誕生日を祝ってくれる人が存在すること。ボクにはキミが必要であるように、キミもボクを必要としてくれていること。 「だい、じょうぶ?」 うう、と呻いたキミに、ボクは思い出したように声を掛けた。場所やシチュエーションに関係なく、半ば無理やりに始まった行為であることは明らかだ。自分勝手に抱いてしまったことを反省していると、キミは緩慢に瞼を持ち上げた。視線を合わせて、ふわりと口元を緩めて。 「……はは。やっぱりきつい、な……」 そう呟く笑顔は甘く柔らかく、この上なく蕩けて幸せそうに見えた。まさかそんな風に微笑まれるとは思わなかったボクは、息を呑んで驚いてしまった。 どう考えても慣らし足りてないし、久しぶりだから負担も大きいはずだ。こんな即物的な形じゃなくて、ゆっくり再会の喜びを味わいたかっただろうに、キミは許して笑ってくれている。 「……ああ、日向クン」 喘ぐように口を開いたのは、わけのわからない感情が押し寄せたからだった。 「どうしよう……幸せすぎて、死んじゃいそうだよ……」 大げさではなく本心から呟いて、涙が溢れないよう唇を噛む。キミはまるで子どもをあやすかのごとく、ボクの頭をぽんぽんと叩いた。 「馬鹿。誕生日はまだ、始まったばかりだろ?」 苦笑混じりに諭しながら、優しく抱き寄せられる。重なった体温に、また泣きそうになってしまった。ボクが関わる世界なんて狭くてちっぽけなものだけど、今この瞬間、ボクはこの世で一番の幸せ者だと思った。 「はあ、日向クン……」 キミの名を陶然と舌に載せて、ボクは幸福感に酔いしれた。温かくて気持ちよくて、しばらくキミの熱を堪能する。中がすっかりボクの形に馴染んでるなとか、さっきからきゅうきゅう締めつけられてるなとか、取り留めのない思考が巡る。そうして穏やかな快感を味わっていると、キミの腰が焦れたように揺らめいた。 キミは激しく突かれるのが好きだから、そろそろ耐えられなくなってきたのだろう。わかっていながら耳や首にキスをして、更に時間を掛けて溶かしてゆく。ボクの体重に押し潰された体勢は、自ら動こうにもかなわないに違いない。 「ん、ッ」 支えた肘が痛くて腕をずらすと、それすら刺激になったらしい。背中に回されたキミの手が、スーツ越しに爪を立ててくるのがわかる。内側はさっきから蠢きっ放しで、もっと奥へ来てほしいと誘い込むかのように。 「日向クン?」 こまえだ、と舌足らずに呼びかけられて、あえてとぼけて訊ねてやる。ボクとしてはもういっそこのまま一日中、誕生日が終わるまでただ繋がってるのもいいな、なんて思っていたんだけど。 「こま、えだ……こま……」 「うん。何?」 熱に浮かされた声で、キミはひたすら繰り返している。ふと意地悪をしたい気持ちが湧いて、ボクはわざと耳朶に低く問いかけた。強情に黙り込んでもいいし、素直に求めてくれるのもいい。どちらにしろ、追いつめられたキミは可愛いに違いない。 「どうしてほしいの?」 顔を見られたくないのだろう、起こしかけた身体が強い力に阻まれた。キミの両腕と両脚が、ボクを拘束するかのごとく抱きしめてくる。キミは喉を引きつらせると、しゃくり上げるような声で。 「早く……」 ―――早く奥まで来て、ぐちゃぐちゃにして。 熱っぽくかすれた言葉が、恥じらいを残して注がれる。 あまりの破壊力に、ボクは心臓が止まるかと思った。 テレビの音は、いつの間にか聞こえなくなっている。 余韻に痺れた頭で、ボクはぼんやりと考えた。今何時だろう。テレビ放送が終わってるということは、かなり遅い時間である証拠だ。明日はぬかりなく有給休暇を取ってあるけど、このままここで続けるよりは、ベッドに移動した方がいいに決まっている。 そうは思えど動けないまま、ボクはキミの内に留まっていた。キミは目を閉じてぐったりしていて、正に強姦された後って感じだ。やっぱり玄関という場所と、ほぼ着衣のせいだろうか。別にマンネリ気味だったというわけじゃないけど、たまにはこういうシチュエーションも悪くない。 そんな感想を抱いたせいか、ボクは再び下肢に熱が集まるのを感じた。その質量が伝わったらしく、ぴくりとキミが肩を震わせる。 「ッ、おい」 さっきまで散々喘いでいたくせに、咎めるように睨むその目はいつものキミだ。だからまた犯して鳴かせて泣かせてやりたくなるんだって、キミはきっとわかってない。 「うん。休憩だね」 自らの欲望を落ち着かせるためにも、ボクはキミにそっとキスを落とした。我がままを愛しさに載せて伝えるように優しく、柔らかく。 「そう思うなら抜けよ……」 「やだ」 子どもかよとかなんとか呆れながら、キミは気だるげに苦笑している。そうかもしれない、とボクは心の中で同意した。ボクがこんな風に手放しで甘えられるのは、世界中どこを探してもキミだけだ。 「……そうだ狛枝。誕生日、おめでとう」 何度目かのキスの後、キミがふと思い出したように微笑んでみせる。 「帰ってきたら、一番最初に言うつもりだったんだけどな……ケーキとプレゼント、用意してあるぞ」 「う……ごめん。ありがとう」 素直に謝りつつも、鼓動が大きく動いてしまった。すっかり脱力しているキミの様子が、恐ろしく扇情的だったからだ。 「……ねえ。わがままを聞いてもらえるならもう一つ、プレゼントに欲しい物があるんだけど」 「ん? なんだ?」 問いかけてくるキミの頬に触れて、弧を描く唇を指でなぞる。ボクは大真面目な顔で、口説き文句じみた台詞を言葉にした。 「キミだよ、日向クン」 特に何も考えてなかったのに、気がつけばそう口走っていた。何を言われるのかと身構えていたキミは、驚いたように目を丸くしている。かと思うとふにゃ、と蕩けた笑顔になって。 「じゃあ、こうしようか」 そう言いながら、キミは伸ばした右手でボクのネクタイを引き抜いた。そのまま自らの首に掛けて、少し歪な蝶々結びを作ってみせる。 「ほら」 「……あはっ、いいね」 悪戯っぽく笑うキミの、汗が光る鎖骨の上。ネクタイを代わりにした黒いリボンは、およそプレゼントとは思えないほど、地味で味気ないラッピングだけど。 「うーん。でもせっかくなら、これは拘束具として使う方が好みかなあ」 ネクタイの端をつまみ上げて、にっこりと笑いかける。キミはまた少し瞠目すると、仕方がないなとばかりに両手を広げた。 「お手柔らかに、な」 半分冗談だったはずが、どうやら許可してくれたらしい。今日はきっと、どんなわがままも許される日だ。 先ほど施されたばかりのリボンを、指先で丁寧に解いてゆく。見守るようなキミの視線を感じながら、ボクは今日が終わらなければいいのにと、非現実的なことを考えていた。
世界で一番幸せな日 |