またあの客が来た、と日向は思った。 もちろん顔には出さず、いらっしゃいませというお決まりの挨拶で迎える。彼はこちらに軽い会釈を返すと、DVDが並ぶ棚の向こうへ消えた。 金曜日の深夜、駅前のレンタルDVD店。閉店の零時十五分前ということで、客は今の青年が一人だけだ。あとはレジカウンター担当の日向と、事務室に引っ込んでいる店長の計二人。流行曲のBGMが、かえって店の静けさを強調している。 日向がここで働き始めて約一年、さっきの客はここ最近見かけるようになった常連だった。毎週金曜の閉店前に現れて、二泊三日でDVDを二本借りてゆく。この時間はいつもレジに入るシフトだから、自然と覚えてしまったのだ。 あれは覚えざるを得ないだろうと、さりげなく棚向こうをうかがう。緩い癖のある白髪にすらりとした長身、一般的に美形だといえる容姿は非常に目立つ。最初に受付をしたときは、あまりの白さに外国人かと思ってしまったほどだ。 狛枝凪斗。会員申込書と身分証明書で、そのときに名前を知った。客のプライベートな部分などいちいち覚えていないが、年は自分と変わらなかったように思う。住所は確かこの近くのマンション、職場も近くだった。 恐らく残業の帰りに寄って、DVD鑑賞で土日を過ごしているのだろう。昨今は専門チャンネルやネット配信、宅配レンタルなども充実しているのに、わざわざ店に通うのは何かこだわりでもあるのだろうか。きちんと実物を手に取って、実際にパッケージを見て決めたいとか。 勝手な想像と共に、日向はこっそり肩をすくめた。他人の価値観に口出しはしないが、それはそれでどうなんだろうと思ったからだ。何故なら。 「お願いします」 狛枝はいつもどおり、会員証とDVD二枚を携えてレジに来た。日向はやはり顔に出さないまま、はいと答えて受け取った。 レンタルは専用のケースだから、一見何のDVDかはわからない。とはいえ、タイトルがそのまま中身を表している物も存在する。バーコードを読み取るまでもなく、日向は無表情の奥で苦笑した。狛枝が選ぶ物は相変わらずだ。 二本のうち一本はいつも映画。誰もが知る有名大作から単館上映のマイナー作品まで、ジャンルを問わず多岐にわたる。今日は数年前に流行したミステリーで、日向も観たことがある映画だ。 もう一本はいつも成人向、いわゆるアダルトビデオ。こちらも特に偏りはなく、人気女優から素人ナンパ、近親やSMなどハードなプレイまで幅広い。今日はコスプレ物なのか、メイドやご主人様などといった単語が見えた。 狛枝は映画とAV、合わせて二枚持ってくるのが常だ。二枚とも堂々とレジに差し出してくるから、映画を隠れ蓑にしたいわけでもないらしい。アダルト系を借りる客はそれなりに多く、店員としては慣れているし全く気にもしない。だが彼の場合は嗜好の傾向が全く読めず、ゆえに変わった客として記憶に刻まれていた。 「二泊三日でよろしいですか?」 事務的に訊ねながら、目の前の男についてぼんやり考えてみる。休日を映画とアダルトビデオで過ごすなど、他人事ながら少し淋しい週末だ。イケメンの部類なのに、彼女はいないのだろうか。AVを観ているからといって、いないとは限らないと思うのだが。 すぐに返事がなかったので顔を上げると、何故か見開かれた灰色の目と目が合った。 「店員さん、覚えててくれたんだ。二泊三日」 「え?」 「ボク、まだ何も言ってないのに」 「……あ。はい」 選択肢は他にも一泊二日、旧作なら一週間のレンタルができる。彼はいつも三日だったから、習慣的に確認してしまった。 「すみません、違いました?」 バーコードリーダーを止めて、慌てて確認し直す。ううん、と狛枝が笑った。 「二泊三日で大丈夫。いつものレジの人だってボクも覚えちゃってたから、なんか嬉しいな」 少し照れ臭そうなその微笑は、柔らかく人懐こく親しみやすい。日向も思わず相好を崩して、営業用ではない笑顔を浮かべた。 「いつも、週末に来られてますよね」 「ええ、休日にやることなくて。ここ仕事帰りに寄れるから便利だし、品揃えも豊富だし」 何気ない世間話に、狛枝は明るく答えている。日向はDVDを袋に入れながら、先ほどの考えを改めた。見た目が良く愛想も良いとなれば、女性の方が放っておかないはずだ。これで彼女がいないなど、やはりあり得ないだろう。 「お待たせしました」 「ありがとう。それじゃまた」 引き続き勝手な想像で袋を渡して、ありがとうございましたと一礼をする。狛枝も店を出る前に振り返り、にこやかに会釈をしてくれた。周囲が一気に華やかになったような、そんな笑顔だった。 さすがイケメンは違うなと、脳内で称賛を送っておく。借りる物に一貫性がなさすぎて、一体どういう人間なのかずっと不思議だった。普通に好青年じゃないかと思いながら、日向は仕事に戻ることにした。 そして、次の週の金曜日。 その日は朝から、主に店長がレジに入ることになった。曰くぶり返した腰痛のせいで、じっとしている方が楽らしい。なので客が少ないときは日向が店内を回り、返却されたDVDを元の場所に戻す作業に従事した。 金曜の夜は混雑するが、それでも二十三時を過ぎれば客足は途絶える。以降のレジは店長一人で足りるだろうと、日向は返却DVDが載ったワゴンと共にカウンターを出た。 各棚を巡回しながら、一つ一つ確認してケースに入れてゆく。最後に店の端にある黒いカーテンの向こう、誰もいない成人向コーナーに入ったときだった。 「あれ、店員さん?」 「あ」 ちょうど続くようにして、狛枝がカーテンをくぐってくる。もうそんな時間になるのかと、日向は会釈と挨拶をした。 「いらっしゃいませ、こんばんは」 「こんばんは。レジじゃないのって、珍しくない?」 先週多少なりとも会話したせいか、狛枝は気さくに話しかけてくる。はい、と日向も笑顔を浮かべた。 「今日はたまたまなんですよ。すみません、今出ますね」 作業中の店員がいると、ゆっくり吟味もできないだろう。それにいくら慣れているとはいえ、こちらとしても気まずく居心地が悪い。 「いえどうぞ、お仕事続けてください。それより、聞いてもいいかな?」 「はい?」 ワゴンごと去ろうとした日向を、狛枝がにっこり笑って制してきた。明るい口調で、両手で周囲の棚を示すようにして。 「この中で、おすすめを教えてほしいんだ。店のじゃなくて、キミのおすすめ」 「……え」 予想外の質問に、日向は一瞬呆気にとられた。映画やドラマならいくつか人気作を挙げられるし、実際に聞かれたこともある。だが、アダルト系に限定されるとは思わなかった。 おすすめと言われても、この類のものはあまり観たことがない。気恥ずかしさと後ろめたさがあり、専らネットでこっそり観る程度なのだ。とはいえ学生のとき、好みの女優の話で盛り上がった記憶もあることにはある。もしこれが気心の知れた友人同士だったなら、当時のように冗談混じりに答えられたのかもしれないが。 「実は今まで色々借りてみたんだけど、どれもいまいちっていうか、合わなかったんだよねえ」 固まっている日向をよそに、狛枝は渋面で両腕を組んでいる。ああ確かに色々だったなと、日向は心の中で突っ込んだ。よくいえば雑食、悪くいえば節操無し。よほど守備範囲が広いのかと、いっそ尊敬したくなっていたほどだ。 だが今の本人の発言から察するに、自分で自分の好みがわからず模索した結果だったらしい。下手な鉄砲数撃ちゃ当たる、ということだったのだろうか。 「だから、誰かに聞いてみるのもいいかと思って。意図的に操作されてそうなネットのレビューより、現場の意見の方が参考になるでしょ?」 「げ、現場? そう、ですね……」 言い分はわからなくもないが、何故それが自分なのだろう。単純に偶然か、運が悪かっただけなのか。二人きりのアダルトコーナーに、妙な沈黙が落ちた。 狛枝はじっと答えを待っている。その瞳にどこか熱っぽいものを感じて、知らず背筋が冷たくなってくる。とにかくこの空気から逃れるべく、日向は返却ワゴンから適当に一枚つかんで取り出した。 「じっじゃあこれとか、どうですか?」 狛枝がそれを受け取り、ラベルを見て瞬きをする。 「……へえ。意外だな」 からかうわけでも、呆れるわけでもない。純粋に驚いているらしい表情に、自分は一体何を選んでしまったのかと不安に駆られた。 「キミって見かけによらず、マニアックなんだね」 向けられたラベルを読んでみると、明らかに監禁調教系のSM物だ。タイトルに躍る物騒な単語が、ハードな内容を連想させる。日向としてはもう少し普通の、無難な内容の方がよかった。 「は、はは、まあ、そういう気分のときも、ありますよね」 お前に言われたくないと思いながら、ごまかすように笑ってみせる。狛枝が今まで借りた中には、もっとマニアックでフェティッシュな物もあったはずだ。いや、結局それは彼の趣味に合わなかったらしいが。 「そっか。こういうの、好きなんだ」 タイトルを指でなぞって、狛枝は何故か嬉しそうだ。日向の奇異の視線に気づいたのか、ふいにこちらを見て目を細める。 「ごめんね。本当のこと言うと、内容は別になんでもよかった。ボクが色々AV借りてたのって、キミの反応を見たかったからなんだ」 「……へ?」 言われたことの意味がわからない。間抜けな声を零した日向に、狛枝はまたにっこり笑った。 「反応から好みを探るつもりだったんだけど、キミ淡々と仕事をこなしちゃうから、なかなか難しくてさ。ボクのこと覚えてくれたみたいだし、もう本人に聞いた方が早いなって」 「な。なんで……」 単なる一店員の好みを知って、どうしようというのだろう。二の句が継げない日向に構わず、狛枝は吐息混じりに爆弾を落としてくれた。 「だっておすすめしてくれるんだから、キミも好んでオカズにしてるDVDってことでしょ。同じ物を観れば、オナニーしてるキミの姿がリアルに想像できるじゃないか。ね?」 「……」 理解の範疇を超えた言葉に、日向は今度こそ凍りついてしまった。この男は今、爽やかな笑顔で何と言ったのか。 「でもこの内容だったら、女優をキミに置き替えて妄想した方が楽しそうだ」 悪戯っぽく微笑みながら、狛枝はDVDを示してみせた。胸元の名札を見て、一歩足を踏み出して。 「そう、ボクはキミに一目惚れしちゃったんだよね。日向クン」 ……今すぐこの店をやめて、どこか遠いところへ逃げるべきだ。 得体の知れない恐怖に、日向の本能が警告を鳴らしていた。
レンタル屋店員日向とその常連客狛枝 |