唐突に差し出されたジュエリーボックスを見て、日向は面食らったようだった。 先ほど会議が終わったばかりの部屋は、日向と狛枝の二人きりだ。他の機関員が昼食に出た頃合いを見計らって、狛枝は日向の隣に立った。そうして資料を片付けていた彼に、手のひらサイズの白い箱を突きつけたのだった。 「えー……と?」 戸惑う日向をよそに、狛枝はケースを開いてみせる。中には、滑らかな曲線を描くシンプルな銀色の指輪が一つ。 「なんだよ、これ?」 「結婚指輪」 「けっ……!?」 しれっと答えてやると、日向は予想どおり絶句した。狛枝はリングピローから指輪を取り出して、彼の左手を強引につかむ。 「ほら、指。伸ばして」 「え、ちょっ、なんだよ、プロポーズってことか!?」 「……嫌なの?」 「嫌、とか、そういうわけじゃなくて」 むっとした狛枝に、日向が慌てて首を振った。別にプロポーズのつもりはなかったが、そう取られてもかまわない。恋人として付き合い始めて数年、そろそろ結婚を考えてもおかしくはない頃だろう。―――男同士でなければ。 「どうしたんだよ、突然。わざわざ買ったのかこれ?」 「うん。お金なんて腐るほどあるしさ」 無言で指輪を差し出されたら、確かに戸惑うかもしれない。あっさり肯定しながら、狛枝は他人事のように考えた。互いにそんな話題など全く口にしていなかったのに、何があったと思われて当然だ。しかも昼休みの職場で。 「とりあえず指輪をしておけば、既婚者ですってアピールができるでしょ」 言うが早いか日向の左手を再度つかみ上げて、さっさと薬指に指輪をはめてやる。サイズは彼の睡眠中に測っておいたので、ぴったりだ。 「なんで俺が既婚者をアピールする必要があるんだ……」 無理に外そうとはしないものの、日向はなんとも言えない顔で左手を眺めている。 「それに色々すっ飛ばして、いきなり結婚指輪って。こういうことは、きちんと段階を踏んでだな」 「婚約指輪も欲しかった? ごめん、今日中に用意するね。あと結婚式がやりたいって言うなら喜んで計画するし、入籍にこだわるならこの国の法律を変えてみせるよ!」 「いや指輪はいらない。式もいらない。法律も変えなくていい。そもそも俺は結婚したいなんて思ってない」 冗談半分だったのに、真面目に応えられてしまった。狛枝はこっそり嘆息して、相変わらずだなと苦笑した。 同性婚が認められている国に移住するなど、その気になれば男同士でも結婚はできるだろう。だが日向は少なからず、先の絶望事件の負い目を感じている。そんな自分が人並みの人生を歩めるわけがない、誰かと結婚して幸せになる資格などないと思い込んでいるのだ。 とはいえ、狛枝も特に意識したことはなかった。法で認められたいわけではないし、周囲に祝福されたいわけでもないし、何よりも現状が既に幸せだと思うからだ。ただ一つ気になることがあって、そのための指輪だった。 「あのさ。日向クンさっき、飲みに誘われてたよね」 「あ? ああ、それがどうしたんだよ」 会議が終わってすぐ、日向は後輩たちのグループに声を掛けられていた。また今度なと笑顔で断っていたが、狛枝はあの中に下心がある輩もいることを知っている。 「もう、相変わらず鈍いなあ。ちゃんと自覚してよ、自分が人誑しだってこと」 「はあ?」 なんだそれとばかりに、日向は本気で首を傾げている。本当に自覚がないのかと思うと、狛枝は頭を抱えたくなった。あの島の、プログラムにいたときからそうだ。 「後輩上司老若男女、キミはいろんな人に狙われてるんだよ。だからもう結婚してるんです、心に決めた相手がいるんですって主張しておけば、悪い虫も寄ってこないでしょ」 はあ、と生返事を返す日向は、やはりよくわかっていないらしい。狛枝は眉根を寄せて、人差し指を突きつけた。 「とにかくその指輪、肌身離さずつけてて」 「まあ、いいけど」 そこまで言うならと、日向は肩をすくめてみせる。そしてふと気づいたように、狛枝の左手を見て。 「あれ。結婚指輪なのに、どうしてお前はしてないんだよ」 「……ボクの話、聞いてた? 本当に結婚指輪として渡したわけじゃないんだよ?」 「でも、普通はペアでするものだろ。これも二つセットだったんじゃないのか?」 「そう、だけど」 対になっていたもう一つは、日向が失くしてしまったときの予備のつもりで、同じサイズを選んでいる。そうじゃなくて、と狛枝は言い聞かせるように口を開いた。 「あくまでも、虫除けのためのものなんだ。キミが身につけることで、周囲への牽制になればいいんだよ。それにボクはほら、これだからね」 言って、自らの左手を示してみせる。黒い手袋に覆われた無骨な義手は、メンテナンスの世話になることも多い。指輪や時計、ブレスレットなどのアクセサリーは不向きだ。かといって、利き手である右の薬指では邪魔になるだろう。 「じゃあ、鎖を通して首に下げておけよ」 「……何、日向クン」 しかめ面をした日向の提案に、狛枝は知らず目を丸くした。 「そんなに、ボクに指輪をつけさせたいの? キミとお揃いの結婚指輪を?」 日向は世間体を気にする恥ずかしがり屋で、あまり自分たちの仲を大っぴらにしたがらなかったはずだ。どういう心境の変化だと思っていると、不満げに睨まれた。 「お前が言ったんだぞ。指輪で既婚者アピールができる、もう相手がいることを主張できるって」 「なんでボクが既婚者をアピールする必要があるわけ?」 気がつけば、先ほどの日向と同じような質問を重ねていた。日向はわずか言い淀んでから、視線を逸らして。 「……この間、見たんだよ。お前が別の支部の上司とか、後輩女子とかに言い寄られてるところ」 「え」 「虫除けが必要なのは、むしろお前の方じゃないか」 そっぽを向いて言い放つ様は、まるで拗ねた子どものようだ。嘘、と狛枝は鼓動が跳ねるのを感じた。 「日向クン、もしかして嫉妬?」 「……うるさい」 「わあ、嬉しいな。でも浮気なんて絶対あり得ないのに、ボクってそんなに信用ないかなあ」 「その言葉、そっくりそのまま返してやる」 強気な口調とは裏腹に、日向の頬はかすかに赤い。狛枝は微笑のまま膝を折って、目線の高さを合わせた。 「もうフェイクじゃなくて、本当に結婚しちゃおうか。ボクとなら、波乱万丈の人生が送れること間違いなしだよ」 「知ってる。というか、どういう口説き文句だよ」 日向は苦笑いを浮かべつつも、嫌がりはしていないようだ。もしかして、満更でもないのだろうか。そう思うと、狛枝は緩む口元を抑えられなくなった。 結婚などという人並みの幸せは、自分たちには似合いそうもない。だが互いを捕らえる鎖になるなら、二人で生きる誓いになるなら、悪くはないと思う。たとえ、形だけの自己満足でしかないとしても。 「じゃあ今夜、改めて口説かせてもらおうかな」 言いながらもう一度、日向の左手を持ち上げる。この指輪が彼を縛り、己を繋ぐ枷となりますように。 そんな呪詛じみた願いを込めて、狛枝はその薬指に噛みついた。
ささやかな枷をキミに |