声が聞こえた気がした。

 眠りの狭間で、狛枝は緩慢に寝返りを打った。

 衣擦れの音に紛れて、また小さな呻き声。伴って吐き出された荒い呼吸に、ひゅうと笛のようなものが混じる。

「……はあ」

 すっかり目が覚めてしまった狛枝は、壁に向かって嘆息した。夢の中の幻聴かとも思ったが、発生元はどうやら向こう側のベッドらしい。壁際の端と端に位置を離していても、所詮は狭い寮の部屋だ。寝言など容易に届くし、度が過ぎれば安眠妨害でしかない。

 同居人は最近仕事が忙しいらしく、睡眠不足の日々が続いていると聞いた。夜は泥のように熟睡できるはずだというのに、かえって深く眠れないのだろうか。本人がうなされるだけならともかく、周囲に迷惑を掛けるのはやめてほしい。

「っ、う……」

 そんなことを考える間にも、呻き声は断続的に零れ落ちている。狛枝は鈍い苛立ちのまま、思い切って上半身を起こした。

「ちょっと、日向クン」

 同時に声を掛けて、ベッドの方を睨みつける。わざと大きめに呼びかけたのだが、起こすまでには至らなかったようだ。返事をよこさない彼に、狛枝はがしがしと頭を掻いた。妙な夢でも見ているなら、いっそ起こしてしまった方がいい。

「もう……元予備学科のくせに、手間掛けさせないでよ」

 狛枝は低くひとりごちると、ベッドから下りて立ち上がった。時計の表示は午前三時過ぎ、迷惑もいいところだ。

 しかし共に暮らし始めて数か月、今までこんなことはなかったように思う。単なる余り者同士のルームシェアだが、特に問題やトラブルもない。寮で同居させた方が監視しやすく、互いの行動の抑制にもなる。そんな上層部の思惑は承知の上だったから、なるべくそつなく振る舞ってきたのだ。

 元絶望の残党、世界を滅亡に導いた危険人物。例のプログラムにより更生した今も、一部の人間にはそう見られていると聞く。まあ事実だから仕方がないなと、日向は諦めたように笑っていた。

「うう……」

 カーテン越しの月明かり、狛枝はぼんやりと日向を見下ろす。うなされる苦悶の表情に、あのときの笑顔の面影はない。睡眠中とは思えないほど乱れた呼吸と、シーツを掻いて握る指。胸は忙しなく上下し、額には汗が浮いている。

 一体どんな悪夢に囚われているのだろう。もしかすると過去の絶望の記憶が、夢という形で渦巻いているのだろうか。普段は明るく振る舞っているから、その分抑圧されたストレスに苛まれているのだろうか。

 推測はしたものの、だからどうしたと狛枝は呆れた。そもそも悪夢や不眠など、絶望を経験した者には特に珍しいことではない。興味はない。己の眠りが妨げられなければそれでいい。

「日向クン」

 むしろここまで派手にうなされておいて、いまだ目を覚まさない本人に苛立ちが募る。人の睡眠は邪魔するくせに、凡人はさすが神経が図太いというべきか。

「ねえ、日向クンってば」
「ッ、う」

 少々怒りを込めたとき、ふいに日向が宙に手を伸ばした。強引に起こしてやろうとしていた狛枝は、無意識に右手でそれをつかんでしまった。思いがけず強いその力は、夢の外に助けを求めたからか。

「……日向クン?」

 そう思って呼びかけた瞬間、眠る日向の表情が和らいだ。手は急激に力を失って、狛枝の手のひらに収まった。荒かった呼吸も落ち着き、やがて静かな寝息が残される。

「……え、っと……?」

 手を握ったまま、狛枝は呆然と日向を眺めた。現実で何かに縋りつけたことで、悪夢から浮上できたのかもしれない。あるいは独りではないという証拠が、狛枝の存在が、彼に安堵をもたらしたのだろうか。

「ボク、が?」

 ぽつりと呟くと、ふと幼い頃の記憶が重なった。怖い夢を見て、夜中に目が覚めてしまったとき。そばにいてくれた母親のぬくもりに、安心してまた眠りについた思い出。

「こ。子どもじゃ、あるまいし」

 悪態を吐きながらも、頬が熱を帯びてゆくのを感じる。知らずしかめ面になって、狛枝は唇をへの字に曲げた。そんな記憶を重ねてしまえば、手を振り払おうにも払えないではないか。

 うなされていたことが嘘のように、日向は穏やかな眠りに落ちている。その寝顔は本当に子どもじみてあどけなく、なんだか全てが馬鹿馬鹿しくなってくる。

 指を絡めるように握られているから、無理に解けば起こしてしまうだろう。結果彼がまた悪夢に囚われうなされて、こちらの安眠を妨害してはかなわない。だから解けない、離せない。それだけだ。

「……本当に、馬鹿じゃないの?」

 ベッド横に膝をついて、狛枝は深いため息を吐いた。

 とりあえず朝になったら、ありったけの文句と嫌味を言ってやろう。何か反論してくるようなら、子どもみたいに縋りついてきたくせにと揶揄してやろう。想像すると当分優位に立てそうで、知らず笑みがこみ上げた。

「日向クン、いつも保護者みたいにボクの世話を焼こうとするけど。今夜は、逆になっちゃったね……?」

 独り言と同時に、狛枝は逆らえない眠気に瞼を伏せる。座り込んで突っ伏すこの体勢では、きっと夢見が悪いに違いない。今度は自分がうなされるだろうか。いっそベッドに乗り上げてしまおうか。いや、日向の隣で眠れるわけがない。彼は元予備学科で人工の希望で、何の才能もない凡人だ。同居も仕方なくしているだけで、本当はこんな風に面倒を見る義理もなくて、だから。

 自ら手を握り締めたことに気づかないまま、狛枝は意識を放棄した。











 夢を見ていた気がする。

 柔らかな陽光に、日向はゆっくりと瞼を持ち上げた。

 午前六時前。起床時間にはまだ早いが、あまり二度寝はしたくない。また悪夢に落ちてしまえば、かえって睡眠不足になるだろう。とはいえ夢の内容は既に遠く、残っているのは嫌なイメージだけだ。

「……」

 無言で眉根を寄せたとき、日向はふと圧し掛かる重みに気がついた。息苦しさを自覚しながら、しかめ面で視線を横に向けると。

「こ。狛枝?」

 同居人の狛枝が、何故か同じベッドのすぐ隣で眠っている。しかも右手同士を繋いで、こちらに寄り添うかのごとく。

「な、なんだこれ?」

 抱き枕にされているようにも見えて、日向は動揺のあまり固まってしまった。どうしてこんな状況になっているのだろう。過剰に懐かれた例の二度目のプログラム内ならまだしも、今は元予備学科の凡人として、距離を置かれている現実だというのに。

 日向が残業を終えて帰宅したとき、狛枝は既に自分のベッドで熟睡していたはずだ。起こさないよう物音に気遣ったことも、できるだけ照明を落としたことも覚えている。人肌に暖を求めて移動してくるほど、昨夜は急に冷え込んだのだろうか?

「いや……そうでもなかった、よな?」

 疑問符を浮かべたまま、日向は小さくひとりごちた。近頃は確かに秋が深まりつつあるが、それならクローゼットから毛布でも出して包まればいい。あの狛枝がわざわざ他人の、しかも日向の体温に頼るとは思えない。そもそも寒かったからといって、手を繋いで眠る意味がどこにある?

「……ん」

 混乱する日向をよそに、狛枝がかすかな声を上げる。だがそれきり目を覚ます気配はなく、すうすうと規則正しい呼吸を続けるだけだ。普段の辛辣さが嘘のように、安心しきった幼い寝顔を晒して。

「なんか、子どもみたいだな」

 口元を綻ばせながら、日向はそっと狛枝の頭を撫でた。警戒心や嫌悪感を抱く相手の隣で、こんな風に熟睡することはできないだろう。表向きの言動がどうあれ、それは信頼の証ではないだろうか。

 そう思うと無意識に、繋いだ手に力がこもった。狛枝の冷たい言葉も突き放す態度も、日向はとっくに見透かしている。その裏にある感情を、複雑な本心を。だからこそ虚勢を張って素直になれない、甘え下手で淋しがりやの子どもを連想してしまうのだ。

「いつもこうだったら、苦労しないのにな」

 添い寝されている経緯はよくわからないが、本当に嫌われていたらあり得ないだろう。微笑ましく白髪を撫でるうち、日向は漂い始めた眠気に瞬きをした。

 二度寝はしたくないと思っていたのに、狛枝のぬくもりが予想外に安堵を誘う。このまま共に眠れば、悪夢を見なくて済むだろうか。目覚ましが鳴るまでの短い時間、穏やかで優しい夢に沈めるだろうか。

「起きたら、突き飛ばされるかな……」

 苦笑混じりの独り言を最後に、睡魔に呑み込まれてゆく。一時間後の未来を想像すると、それはそれで楽しそうだと思った。











眠れない子どもたち
20161010UP


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