キーボードを打つ音に、狛枝はふと意識を浮上させた。

 薄暗い部屋に、見慣れたコテージの天井。すぐ近くの棚の上、明るさが最小限まで絞られたテーブルランプ。広いベッドの真ん中で、いつの間にか眠りに落ちていたらしい。

 寝惚け眼で瞬きをすると、少しだけ寒さを覚えた。常夏の南国ジャバウォック島も、太陽が沈めばそれなりに気温が下がる。毛布をもっと引き上げようとして、そういえば寝る前の記憶が曖昧なことに気がついた。

 確か夕食後、いつもどおり日向のコテージを訪れたのだ。まだ仕事が残っている、明日の朝も早い、などと渋る彼を無視して、さっさとシャワーを浴びてベッドに腰掛けた。

「朝早いなら、もう寝た方がいいんじゃないの?」

 パソコンの前から動こうとしない日向に、揶揄混じりの忠告をしたことを覚えている。

「消灯時間を過ぎてもまだ終わらないなんて、キミ一人で仕事抱えすぎでしょ。ほんと要領が悪いよね、元予備学科は」
「まあな」

 日向は否定も反論もせず、ただ笑って頷いていた。

「もう少しかかりそうだから、先に寝ていいぞ」

 仕方がないから、手伝ってあげるよ。

 そう言ってやってもよかったが、今日は狛枝も仕事で疲れている。それに自分のパソコンを使うためコテージに戻るのも面倒なので、まあいいかと寝転んだ。恐らくはそのまま、すぐに寝入ってしまったのだろう。

 部屋の照明は消えているものの、テーブルランプのおかげでうっすらと明るい。それ以外に左側にも光源があって、目を向けると煌々と光るパソコンの前、椅子に座っている日向の背中が見えた。スーツの上着を脱いだシャツ姿は、どうやらまだ仕事中らしい。

 かたかたと控えめに文字を打っては、しばらく考え込むように指を止める。凡人に逆戻りしたとはいえ、彼はこの島の代表であり責任者だ。未来機関本部から課せられる書類の量は、日々膨大なものになっているのだろう。

 狛枝は薄暗闇の中、しばらく日向の後ろ姿を見つめた。不規則なタイピング音と、繰り返す穏やかな波の音。静かで心地良いそれらに眠りを誘われるが、どうにも肌寒く頭が冴えてしまう。

 きっと、隣に日向がいないからだ。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、狛枝は小さく嘆息した。独りで眠れなくなってしまったのは、いつからだろう。淋しいという欲求からではなく、寒いという物理的な理由でもなく、単純に彼がそばにいないと、何かが欠けたかのように物足りない。

「……ん、よし」

 終わったのか、終わらないまでも区切りがついたのか、日向が呟いて伸びをした。よく見ればスーツやシャツではなく、既に部屋着姿で作業をしていたようだ。終わり次第すぐに眠れるよう、あらかじめ就寝準備を済ませておいたのかもしれない。

「あとは、これを送信して……」

 椅子から立ち上がった日向が、腰を屈めてパソコンを操作する。安堵の横顔がちらりと見えて、狛枝も知らずほっとしてしまった。

「……終わった?」

 驚かさないよう、できるだけ小声で訊ねてみる。日向は目を丸くしてこちらを振り向くと、ふ、と笑顔になった。

「悪い。起こしたか?」
「うん、キミの独り言が大きいせいでね。今何時?」

 ささやかな嘘と共に、時計を探して目を凝らす。ちょうど午前零時。すぐ返ってきたその答えに、狛枝は毛布を鼻までずり上げた。思ったよりも早い時間だったので、口角が緩んでしまったのだ。

「もう日付変わってるじゃないか。何の才能もない凡人は大変だね。ほら終わったなら寝なよ、明日も早いんでしょ」

 口元を隠したまま、声には棘と嫌味を込める。そうだな、と日向はパソコン画面を示した。

「言われなくても、送信完了になったら寝る」

 表示された進捗グラフはじりじりと、ようやく半分を過ぎたところだ。放っておいて早く隣に来ればいいのにと、狛枝は毛布の下で唇を尖らせた。

「明日は先に行くけど、お前はゆっくり寝てていいからな。ただし遅刻はするなよ、食べ損ねるぞ」

 テーブルに散らばった書類をまとめながら、日向が保護者じみた言葉を掛けてくる。朝食は毎朝七時、食事担当の花村がレストランに用意してくれている。バイキング形式だからあまり遅いと残り物しかないが、狛枝は別に食べなくても平気なのだ。

 そんなことを正直に言うと、今度は母親じみた小言が始まるだろう。なので話題を変えるべく、当たり障りのない質問をしてみる。

「キミは明日、朝早くから何の仕事なの? 急ぎの提出物でも来る予定?」
「いや。とりあえず左右田と一緒に発電装置のメンテと、弐大と農場の見回り、罪木と支給品の確認、それから……」

 一つ一つの作業を思い出すようにして、日向は指折り数えている。本部関連かと思いきや島の業務、しかも仲間たちを手伝う予定が詰まっていたようだ。

 自分も忙しいはずなのに、日向はいつも彼らを優先する。しかも特定の誰かを贔屓することなく、誰にでも分け隔てなく平等だ。そういうところが慕われ頼られる所以であり、そして。

「じゃあ今日はこれで終了、と」

 静かに苛立つ狛枝をよそに、送信は終わったらしい。日向は明るくひとりごちると、パソコンをシャットダウンしてこちらにやってきた。

 テーブルランプの明かりを残す部屋の中、そばに来た日向が毛布をつかむ。狛枝は唐突に手を伸ばして、腕をつかんで引き寄せてやった。

「わ」

 驚く声を耳に、ベッドに倒して上下を反転させる。乗り上げて圧し掛かる格好で、ついでに両手首をシーツに押さえつけると、予想どおり咎める目で睨まれた。

「……明日も朝早いって、言ったよな?」
「うん、言ったね」

 にこにこと笑いながら、彼の首筋に鼻先を埋める。同じシャンプーのほのかな香りが心地良い。

「今日はしないって、言ったよな?」
「言ったっけ?」

 それはコテージを訪ねたとき、一番最初に確認されたことだ。だが狛枝はあえてとぼけてから、吸いつくように唇を落とした。まだ何か言おうとした、その喉へ。

「っ、う」

 かすかに息を詰めた日向が、びくりと身体を強張らせる。力任せに押しのけられるかと思ったが、動きかけた手はすぐに脱力した。

 抵抗しても無駄だと知ったのかもしれないし、好きにさせた方が楽だと悟ったのかもしれない。どちらにしろ、従順になってくれるのは都合がいい。

「大丈夫だよ。まだ零時過ぎだし」
「まだ、ってお前……」

 さっきと言っていることが違う。そんな訴えを無視して、喉から鎖骨へと唇を移動させてゆく。日向は力を抜いているものの、顔をそむけてどこか不満げだ。

「あのね、日向クン」

 往生際の悪い恋人に、狛枝は一旦顔を上げた。至近距離でまっすぐ目を見て、もう一度にっこり笑ってみせる。

「ボクを迎え入れた時点で、キミは覚悟すべきなんだよ」

 そうだ、快く迎え入れてしまったのは日向の方なのだ。このコテージに、ベッドの隣に、その懐に、共に歩む人生に。

 様々な意味を込めた台詞だったが、さすがに皆までは通じなかったらしい。日向はなんだそれと苦笑してから、諦めたように目を閉じた。











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