土砂降りの雨の中、傘も差さずに歩く夢を見た。 「……えだ。狛枝」 夢から醒めると、逆光になった誰かが覗き込んでいた。その向こうには青い空、白い雲。眩しさに目を細めて、狛枝は瞬きを繰り返す。 「大丈夫か?」 影でよく見えないが、訊ねる声は心配そうだ。もう一度瞼を強く閉じて、これが夢ではないことを確認した。そうしてから、起こしてくれた相手の名を口にした。 「ひなた、クン……」 波の音が耳をくすぐり、潮風にヤシの木が揺れている。そうだった、と狛枝は遅れて思い出した。 昼食の後、おでかけチケットで日向を砂浜に誘った。木陰に座ってたわいのない話をするうち、堪えきれない睡魔に襲われたのだ。恐らく午前の採集で、体力を消耗してしまったせいだろう。 「……ボク、どれくらい寝てた?」 二人揃って昼寝をするならともかく、話の途中で落ちてしまった気がする。誘っておきながら放置するなど、失礼極まりないではないか。 「ごめんね、なんか、疲れてたみたいで」 「気にするな、一時間くらいだ。うなされてたみたいだから思わず起こしたんだけど、まだ寝てても大丈夫だぞ」 ノートとペンを手に、日向が屈託なく笑う。狛枝が眠っている間、これからの採集計画や目標達成度などを書き留めていたらしい。 「……日向クンも、昼寝すればよかったのに」 彼も今日は狛枝と同じ、山の採集担当だった。基礎体力が違うとはいえ、それなりに疲れているはずだ。 「俺もさっき起きたんだ。お前はまだ寝てたし、時間があるなら今のうちにと思って、ウサミに持ってきてもらった」 言って、日向はノートを示してみせた。本来は就寝前に翌日の計画を立てているというから、今夜はその分早く眠れるのかもしれない。 「よし、ちょうど終わった。あとは明日の朝、皆の調子を見てからだな」 日向はそう言ってノートを置くと、立ち上がって海へと歩き出した。白いシャツが太陽に映えて眩しい。修学旅行が始まって早四十日ほど、ジャバウォック島は今日も快晴だ。 「……なんかさっき、変な夢を見た気がする」 思い出して、狛枝はふと寒気を覚えた。夢の名残を払うように、頭を振って上半身を起こす。 「うなされてたな。悪い夢か?」 数歩先で振り返った日向が、またどこか心配そうに訊ねてくる。ううん、と狛枝は笑顔を作ってみせた。 「悪い夢、っていうか……」 そういえば、雨の夢だった。目を覚ましたことで曖昧になったものの、こびりついているのは暗く冷たいイメージだ。 現実は眩しいほど爽やかに晴れているのに、何故そんな夢を見たのだろう。確かに、あまり良い類のものではなさそうだが。 「雨の、夢だったんだ」 「雨?」 繰り返して、日向がきょとんと首を傾げた。右手で庇を作り、思い出したように天を仰ぐ。 「そういえばこの島に来てから、雨なんて一度も降ってないな。今更だけど」 「うん」 つられて見上げた空は、相変わらず南国らしい透き通った青だ。白い雲が点在するものの、曇る気配すらない。 「日本にいたときは、梅雨とか鬱陶しいだけだったのに。こうも晴れの日ばかり続くと、たまには降ってほしいって思っちゃうよねえ」 「いわゆる、ないものねだりってやつか」 狛枝の冗談混じりの言葉に、ふ、と日向も口元を緩める。梅雨や長雨、ゲリラ豪雨。降れば降ったでどうせまた鬱陶しいと、天候を恨むだけに違いない。だが改めて意識すると、なんだかひどく懐かしさを覚えた。 懐かしい。 ふいに浮かび上がった感情を、知らず反芻する。たかが一か月と少し、そこまでこの島の生活が長いというわけでもないのに。今の修学旅行が充実しているからこそ、日本の四季を懐かしく回想してしまうのだろうか。まるで遠く儚い、過去の思い出のごとく。 「日が暮れるまで、まだ時間があるな。どうする、また砂の城でも作るか? この間も途中で崩れたからな」 水平線を背景に、日向が砂浜を示して誘ってくる。狛枝はぼんやりと生返事をした。 目の前に広がるのは、正に南国の楽園を思わせる光景だ。青い海に反射する太陽、穏やかな波と輝く砂浜。不運も幸運もない平和な日常、そして超高校級の仲間たち。 「……帰りたくないなあ」 気がつけば、ぽつりと本音を零していた。無自覚の淋しさを孕み、独り言じみて波の音に紛れる。 「こうしてずっと、この島にいられたらいいのに……」 終わりたくない、終わらせたくない。そう考えてしまうほど、大した禍福の来ないここでの毎日が、かけがえのないものになってしまった。修学旅行は残りあと一週間少しだと、わかってはいるけれど。 「そういうわけにもいかないだろ」 聞きとめて、日向が苦笑混じりに言ってくる。 「島での生活もいいけどさ。俺は予定どおり日本に帰って、今度は希望ヶ峰学園で皆に会いたいって思うぞ。皆と一緒なら、きっとどこでも楽しいからな」 遠く海の向こうを見やる日向に、狛枝は何も言えなかった。確かに仲間がいれば、ジャバウォック島でも日本でも変わりはないだろう。それでも。 それでも己の才能は周囲を巻き込み、いつかきっと不幸をもたらしてしまうから。 「……ねえ、日向クン」 自らの想像に耐えられず、狛枝は祈るように口を開いた。 「この修学旅行が終わっても、希望ヶ峰学園に帰っても、またこうやってボクとお出かけとか、昼寝とか、なんでもない話とか、してくれる?」 それは狛枝にとってこの上ない贅沢であり、自分勝手な我がままだった。己と行動を共にすることは、命を危険にさらすことと同義だからだ。ゆえにその質問は、それでもそばにいてくれるのかという確認でもあった。 「当たり前だろ」 滲ませた切実さに気づいていないのか、日向は無邪気に即答する。 「あまり甘やかすなって、皆には言われたんだけどさ。俺は俺にできることなら、なんでもしてやりたいだけなんだ」 「え?」 どういう意味だろう。戸惑う狛枝に、日向は何故か涙を堪えたような歪な笑みで。 「だから、狛枝。……早く、起きろよ」 彼らしからぬ弱々しい一言が、狛枝の胸を貫いた。わけもわからず、鼓動が速くなる。うまく息ができない。 思い起こされるのは、雨の夢の冷たさだ。暗くて寒い孤独と、つき纏う絶望の影だ。空は明るく晴れているのに。こんなにも、希望に満ち溢れているというのに。 「ほら」 来いよとばかりに、手が差し伸べられる。また逆光になった表情はよく見えず、促されるまま手を握る。強く引かれて立ち上がると、いつもと変わらない笑顔を浮かべた日向がそこにいた。 「今日こそ砂の城、完成させようか」 「……うん」 ―――きっと、何も訊かない方がいい。本能でそう感じた狛枝は、素直に頷いて笑ってみせた。 綻び始めた世界の、その違和感に気づかないまま。
晴れの日 |