蝉が鳴いている。

 緩慢にうちわを煽ぎながら、日向はぼんやりと窓の外を見た。

 空気が停滞した部屋に、風は全く吹き込んできてくれない。ぴくりとも揺れないカーテンの向こう、青い空に湧き上がる入道雲。いかにも真夏の快晴だ。

「はあ……」

 ため息を吐いて、首に掛けたタオルで汗を押さえる。うちわは温い風しか生み出してくれず、暑い。とにかく暑い。

 隣の狛枝はうちわを床に投げ出したきり、ぐったりとソファの端にもたれている。ジャバウォック島にいた頃は、ここまで参るようなことはなかったはずだ。さすが日本の夏は質が違うというか、酷暑にもほどがあるというか。

「……不運だ」

 その狛枝が、消え入りそうな声で呟いた。朝から何度も繰り返されているその言葉に、日向は内心で苦笑する。代わりの幸運が楽しみだとかなんとか、気持ちを切り替える余裕すらなくなったらしい。

「というか、そろそろ限界なんだけど……十二時って、言ってたよね?」
「そう、だな」

 応えて虚ろな目を向けると、時計は十三時過ぎ。横に表示された気温は、いつの間にか三十五度を超えている。日差しが強く、風もないことでまだ上がりそうだ。

「せっかくの休みなのに、不運以外の何物でもないよ……」

 うちわを拾って、狛枝がぼそりと零す。貴重な休日はこのまま、暑いと呻くだけに終わってしまうのかもしれない。

 二人がエアコンの故障に気づいたのは、今朝のことだった。

 揃って久々の休日、どこにも出かけず部屋でのんびりしようと決めた矢先だ。この時期にエアコンが稼働しなければ死んでしまうと、すぐに連絡した寮の管理人によると、業者は十二時頃に来てくれるという。こう暑くては何をする気力も起きず、だらだらと待つだけで今に至る。

「壊れるような予兆とか異音とか、別に何もなかったのにな」

 昨夜までは普通に動いていたのにと、日向は天井隅のエアコンを見やった。未来機関独身寮に備え付けられたそれは、そう古いタイプの物ではない。冬も暖房として使っているが、過度に酷使した覚えもない。

「こういうときのために、扇風機も必要か……」

 だらりとソファに身を預けて、ため息混じりにひとりごちる。でも、と狛枝が皮肉げに口角を上げた。

「でもきっとそれも、肝心なときに壊れちゃったりするんだよ」
「言えた」

 やっぱり不運だと、愚痴を零す狛枝が容易に想像できた。共に暮らし始めて早数年、家電製品の故障は珍しいことではない。そのたび不運を嘆く狛枝に、日向もすっかり慣れてしまった。

「まあ、爆発とかしないだけましか」

 あまり洒落になっていない冗談で力なく笑いながら、もう一度時計に視線を投げる。修理にはどれくらい時間が掛かるのだろう。今日中に直ればいいのだが。

「こんなことになるなら、出かけた方がよかったかなあ」

 思い出したようにうちわを動かして、狛枝が小さく呻いた。図書館や映画館やカフェなど、涼める場所は近くにいくつかある。だがそこに辿り着くまでが堪えきれないと、引きこもりを決めたのは彼だ。最近はずっと忙しかったから、たまには部屋でゆっくり休日を満喫するのもいいだろう。そう考えて、日向も同意したというのに。

「けど、早く直してもらうに越したことはないだろ。故障が朝でよかったんじゃないか?」

 もしこれが夕方や夜だったなら、修理は明日になっていたかもしれない。熱中症の注意喚起が繰り返される毎日、そうなれば正に地獄だ。

「はあ……とりあえずもう一杯、飲むか。ついでに氷嚢でも作ってくる」

 言って、日向はうちわを横に置いた。テーブルの上、緑茶が入っていた二つのグラスはとっくに空になっている。あまりにも狛枝が死にかけているので、少しでも暑さをしのげるようにと気遣ったのだが。

「んぅう……」

 立ち上がろうとしたところを、返事になっていない呻き声で制された。ゆらりと身を起こした狛枝が、気だるげに手を伸ばしている。

「なんだよ」
「いや……もうなんか、くっついてた方が、涼しいかなって……」

 確かにここまで気温が上がってしまえば、体温の方が低いかもしれない。事実絡みつくように両腕を回されると、左腕がひんやりと心地良く感じた。

「でも汗、気持ち悪くないか?」

 自分自身ですら、全身がべたついて不快感を覚えるのだ。他人なら尚更だろうと思ったのだが、狛枝はふっと微笑んで。

「そんなの、今更じゃない?」
「……」

 意味深な笑顔に、日向は思わず言葉を失った。汗が滲む額や頬、そこに張りつく白い髪。色を帯びて艶めいた表情が、フラッシュバックじみて蘇る。

「……そういうこと言える余裕があるなら大丈夫だな」

 つい先ほどまで、陸に揚げられた魚みたいだったくせに。ごまかすように額を小突いて、日向は大げさに嘆息してみせる。う、と仰け反った狛枝が、逃がさないとばかりに体重を掛けてきた。

「お、おい?」

 圧し掛かって抱きしめられるとさすがに暑い、というより暑苦しい。肩を押しのけようとした途端、唐突に濡れた熱が耳を這う。舐められた。

「ふふ。ちょっと、汗の味がする」
「待て、って」

 冗談じゃないと、日向はとにかく逃れるべく身を捩った。肌をかすめた狛枝の吐息は、早くも情事のときのそれだ。暑さにやられたのか、妙なスイッチが入ってしまったのか。

「この状況ですることじゃないだろ。本気で熱中症になるぞ」

 息を詰めながら、非難を込めて顔をそむける。突然の攻防戦でまた汗が流れてきたし、無駄に体力を消耗する意味もない。というかいつ業者が来るかわからないのに、と思った時。

 軽やかなチャイムの音が鳴り響いた。このタイミングでの来訪は、多分にエアコン修理業者に違いない。

「……んぅぅうう、残念」

 狛枝が盛大に脱力して、しかめ面で頭を上げる。

「たまにはこういう趣向もいいかな、って思ったのに。どうせ汗だくだし」
「お前な……」

 チャイムが鳴らなければ、更に先へ進めるつもりだったのだろうか。呆れる日向を横目に、狛枝は不本意そうに立ち上がった。

「あーあ、やっぱり今日は不運続きだ。でもだからこそ、どんな素晴らしい幸運がやってくるのか期待しちゃうよね!」

 そう言って笑顔で両手を広げる様は、いつもどおりの狛枝だ。ようやくこの地獄から解放されそうだという希望に、調子を取り戻したのかもしれない。

「はいはい、とにかく修理してもらわないとな」
「うん。だから、エアコン」

 ため息混じりに立ち上がろうとした日向は、狛枝の一言に動きを止めた。

「直ったら、覚悟しておいてね」

 一瞬だけ唇を触れ合わせて、にっこりと微笑まれる。なんだその宣戦布告はと戦慄しながらも、日向は無意識に眩暈を覚えていた。











夏の日
20170818UP


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