木乃伊は暁に再生の夢を見る1st. Discovery #2 |
階段を下りた一階には、朝に連れてこられた職員室があり、その向かいに保健室があった。 「ここが保健室―――なんだけど、鍵が掛かってるなァ」 ガチャガチャとノブを回して、八千穂は残念そうに呟く。 「いつもはカウンセラーの先生がいて、色々相談にも乗ってくれるんだよ。何か悩みがあったらヒナ先生だけじゃなく、ここの先生にも話してみるといいかもね」 おっけー了解と頷きつつ、九龍は保健室のドアを見上げた。 「すごい美人でさァ、中国から来たルイリーっていう先生なんだ。みんなはルイ先生って呼んでるけど。葉佩クンも、興味あるでしょ?」 へへへッと笑いながら意味ありげな視線を向けられて、思わずきょとんとしてしまった。 「……ふ〜ん。葉佩クンって、何か他の男子と違うね。大概、みんなデレデレするのにさ」 あ、なるほどそういう興味か。一瞬遅れて納得できて、九龍は少し苦笑する。 いやもう俺、本当はデレデレしっぱなしなんだけど。ただ、ヒナ先生と八千穂ちゃんと七瀬ちゃんで許容量オーバーで、まだ見ぬ保健の先生にまで気が回らないだけだよ。 本音を言うと、女の子好きで軽くてお調子者、というイメージが初日から定着してしまいそうなので、さすがに心に秘めておく。 「まァ、悩みがあってもなくても、今度来る時にはルイ先生もいるだろうし。何でも気軽に話してみたらいいと思うよッ。それじゃ、え〜と……次は売店ね」 案内されて少し進むと、突き当たりに校務員室、その横に売店があった。生徒の姿もちらほら見えるが、そんなに混雑はしていない。昼休みのピークが過ぎたのかもしれない。 「この売店では、学用品から寮で使う日用品まで、いろんな物を買うことができるんだよ」 見渡してみるとなるほど、品揃えは豊富なようだ。全寮制で長期休暇以外は敷地外へ出られない生徒たちの、ここが全てを担うコンビニといったところか。 「ただ放課後は、生徒は校舎に入ることができなくなるから、この売店も閉まっちゃうんだ。欲しい物があれば、昼休みに買っておいた方がいいよ」 ああそうか、ではコンビニではなくスーパーとでも訂正すべきか。九龍は渡された資料の中の、校則に関する部分を思い出した。曰く、放課後は部活動を行う生徒以外は速やかに校舎を出ること。寮の消灯は二十二時、深夜の外出は禁止。 「売店は境さんって、校務員のお爺さんがひとりでやってるんだ」 八千穂の説明を聞きながら、パン売り場のカレーパンや焼きそばパンに惹かれていると、背後の人影に気がついた。 「騒々しいのォ……まったく。誰が爺さんじゃいッ!」 振り返ると、痩せた老人が立っていた。甲高い声を上げた小さな体躯は、見るからに助平そうな爺さんである。薄いカーキ色のジャンパーを着て、首にタオルをかけて、右手にモップを持っている。恐らく、彼が境という校務員なのだろう。 「……」 瞬時にして、八千穂が敵意を表すのがわかった。 「……」 境も無言で、それに応戦した。 九龍は何がなんだかよくわからず、とりあえず見守ることにした。次の瞬間。 「むッ? あそこに見えるのは……」 「え?」 境の突然の声に、八千穂の気がそがれた。うわ古典的、と九龍は思ったが、あえて何も言わないことにする。 「今じゃッ!」 案の定、助平爺は八千穂の背後に回り、勢いよくスカートをめくった。売店中に響き渡る八千穂の悲鳴に、九龍は思わず耳を塞ぎつつも、青い下着がしっかりと目に焼き付いてしまう。ごめん八千穂ちゃん、今時の女子高生だから、スパッツとか短パンとか装備してると思い込んでた! 「眼福、眼福。長生きはするものじゃわい」 下品に笑いながら、境は満足そうな顔をしている。あああ、八千穂ちゃんみたいな女の子は、こういうの後が怖そうなのに、と思った九龍の予感的中。 「こッ、この……」 低い声に振り返ると、怒りに拳を震わせた八千穂の姿である。 「スケベジジイィィィッ!」 ほえ?と間抜け面をした境に、八千穂の一撃が決まる。そのまま彼がぶっ飛んで壁にめり込むのを、九龍はスローモーションのように認識してしまった。 「あが……が……」 意外に馬鹿力だとは思っていたが、まさかここまでとは思わなかった。おーい爺さん生きてるか、と一応声をかけておく。もっともこれくらいではへこたれないのが、こういう人種の特徴であるのだが。 「まったくもう、信じらんないッ!」 怒り心頭といった様子で、八千穂が腕組みをして境を見下ろしている。うう、と呻いて、彼は壁からずり落ちた。 「わ……儂は……もう……ダメ……じゃ。し……死ぬ……前に、その乳……揉ませてくれ……」 遺言じみた台詞に、九龍は呆れるよりもいっそ尊敬してしまった。あっぱれ助平心、それで死ねれば本望なのだろう。八千穂は既に言葉も出ないのか、ただ黙り込んでいる。 「そこの若者よ。お主も揉みたいじゃろ?」 「え」 また唐突に話を振られて、九龍は自分を指差した。 「はあ、まあ、俺も男なんで……」 「そうじゃろう、そうじゃろう。お主、その歳でなかなか見込みがあるのお」 「ちょっと、何言ってんのよッ。葉佩クンはスケベジジイとは違うのッ」 うんうんと頷く境と、憤慨する八千穂の間で、九龍は妙に居心地の悪さを感じてしまった。正直に告げたのだが、どうやら八千穂は思いのほか自分のことを気に入ってくれたらしい。 男なら別に当然の欲望だと思うんだけど、この爺さんと俺の違いというと。……うーん、言動かな。確かにここまで顕著にスケベ心出して、行動に移すことはしないしな。 八千穂にしてみれば、ルックスも重要な要素の一つになっているのだが、九龍本人はあまりそれに気がつかないでいた。 「やれやれ、冗談のわからん連中じゃわい」 「冗談でスカートめくられたら、たまんないわよッ!」 まだ怒っている八千穂を軽くあしらい、境は今気づいたかのように、九龍を見つめて目を丸くした。 「時にお主。見ない顔じゃな?」 ……きっと意識しない限り、彼にとって男子生徒はどれも同じに見えるのだろう。 「儂は境玄道。この學園の『校務員』兼『清掃係』兼『売店の店主』兼―――」 「はいはい、わかったわかった」 あたしの話、聞いてんの?と憤っていた八千穂が割って入って、おざなりに手を振った。 「彼は、あたしと同じ3‐Cに転校してきた葉佩クン。売店に何か買いにきても、変な物を売りつけないようにねッ」 「失礼な娘じゃの、儂がいつそんなことをしたんじゃ。儂はただの親切な売店のおやっさんじゃ」 「そんなこと言って、どうせまた何かエッチなこと企んでるんでしょッ。葉佩クン、行こッ。次は屋上を案内してあげる」 教室を出たときと同じく、八千穂は九龍の腕を引っ張るようにして促した。屋上で変なことしたら駄目じゃぞ〜などと、背後から境の声が届く。八千穂が答えることはなかったが、階段を踏みしめる足取りの乱暴さに、苛々が増したことは間違いなかった。 「まったく、信じらんないッ。なんであんなスケベジジイが校務員なの?」 三階の廊下で立ち止まって、八千穂はしきりに怒鳴り散らしていた。触らぬ神にたたりなしと、九龍が何も言わずにいると、やがて恥ずかしそうに笑って。 「あっと……ゴメンね。そこの階段を昇って行くと、屋上だよ。で、南の階段から、四階に上がると文化部の部室。通称、石研て呼ばれてる《遺跡研究会》とか怪しげな部もあるし、みんな南棟の四階にはあまり近づかないけど」 ふんふんと聞きながら、やっぱり何か部活に入ればよかったかと、九龍は再度後悔した。文化部なら、まだ『仕事』に影響しない程度に参加できたかもしれない。 「……あれ?」 考え込んでいると、八千穂がふと不思議そうに呟いた。動かないその視線を追って、窓際に一人の女生徒が佇んでいるのが見えた。 素直な黒髪は膝よりも長く、まずそれが目を引いた。それから、窓の外を見つめる大人びた表情。どこか憂いを含んだ瞳は、ただ一点に注がれていて。 「あれは、同じC組の白岐サン……。窓の外をじっと見て、何してんだろ?」 しらきさん。なんか、近寄りがたい子だな。そんな第一印象で九龍が見つめていると、気づいたのか気づいていないのか、彼女がこちらに歩き始めた。 揺れる長い髪はあまり重量を感じさせないが、それでもかなりの存在感がある。一歩ごとに金属の音が絡む気がして、九龍は少し驚いた。白く細い彼女の首に巻かれた、鉄の首輪。そこから身体に巻きつけているのか、セーラーの胸元へ流れる三本の鎖。どういうアクセサリーだ。 「やッ、やァ! こんにちはッ!」 慌てたように笑顔を作る八千穂を見て、白岐という女生徒は静かに言った。 「……私に何か用?」 「用ってほどじゃないけど……何か窓の外に面白いものでも見えるの?」 「別に。ただ、景色を眺めていただけ」 低い声で簡潔に、囁くように。突き放した物言いではなかったが、それでも暗に関わるなという牽制が見え隠れする。特に疑問も持たず、そうなんだと納得した八千穂から、白岐は九龍に目を向けた。 「……? あなたは?」 刹那、警戒心に似た光が瞳に映る。一瞬ではあったが、九龍が見逃すはずがなかった。 「転校生の葉佩九龍クンだよ」 八千穂の無邪気な紹介に、白岐が納得したように微笑んだ気がした。あくまでも、そんな気がしただけだが。 「そう……また転校生が」 ―――また? 表向きは何の感情も含まない、白岐の一言に引っかかる。 「また、って……どういうこと?」 九龍は訝しげに聞いてみた。誰に向けた質問でもなかったが、八千穂が答えてくれる。 「そういえば、葉佩クンは知らないよね? この學園、転校生が多いんだ。新しく赴任してくる先生もね」 ……え、なんだそれ初耳。 「葉佩クンの隣に、もう一つ席が空いてたでしょ? あそこも実は、半年前に転校してきた男子がいてね。ほんの三ヶ月前の夜に、墓地のある森で行方不明になって、それっきり……。學園側と親御さんが捜したんだけど、結局どこにも見つからなくてさ。警察は、ただの家出じゃないかって」 墓地のある森で、行方不明になった転校生。……まさか。 ふと浮かんだ推測に、九龍は半ば愕然となった。 ―――同業者、だったのだろうか? それでね、と続けてうつむく八千穂は、悲しそうな表情をしていた。きっと今回と同じように、転校初日から色々と世話を焼いたに違いない。 「それでね、寮の裏手に立ち並ぶ墓地の墓石の下には、行方不明になったこの學園の先生や、生徒たちの持ち物が埋められているんだ。この學園のみんなが、行方不明になった人たちのことをずっと忘れないように。そして、いつか見つかる日を信じて……」 では、墓地というのは本来の意味のものではなく、単純に名前だけということになる。が、それでも學園という場所には相応しくないような気がする。 墓地が怪しいと、七瀬も言っていた。その転校生も、同じことを感じたのだろう。夜を待って、忍び込んで、そして―――そして? 言葉をなくしていると、ずっとこちらを見つめていたらしい、白岐と目が合った。最初に感じた、あの警戒心の瞳だ。 「そして、また転校生が来た……。あなたは、何者なの?」 「へ……?」 質問の意図がつかめなくて、発した間抜けな声が八千穂と重なった。一瞬の後、見透かされたのかと危惧した。 「この學園は、呪われているの。眠りを妨げる者には、災いが降りかかるわ」 九龍から目をそらさずに、白岐は静かに言い切った。返事を待っているようだったが、どう答えていいものかわからなかったので、あいまいに頷いておく。 「……呪いは、伝説でも幻でもない。紛れもなく、この學園の現実よ」 ああそうだね、そのとおり。アラーの眠りを妨げる者、死の呪いに憑かれし運命なり。 ―――間違いない。彼女は、何かを知っているのだ。 「私の名前は、白岐幽花。いつか、私の言っている意味がわかる時が来るわ」 しらき、かすか。その名前を舌の上で転がして、九龍は忘れじと噛み締める。少しも表情を変えることなく、それじゃ、と言って彼女は去っていった。 「この學園は呪われている……か」 珍しく緊張がとけたように、八千穂がため息をつく。実際白岐が去って、周りの空気が綻んだ気がするから不思議だ。 「確かに、ここには何かあるのかもしれないなァ。人が消えるし、不吉な噂も多い」 どんどん沈むかと思われた八千穂の気分は、う〜ん、やめやめッ!と無理やりぶった切ることで浮上したらしい。 「呪いなんて考えても仕方ないしね。屋上で新鮮な空気でも吸って、暗い気分を吹き飛ばそ。ね?」 九龍と同じく前向き思考タイプらしく、八千穂はにっこりと笑いかけてきた。当然、微笑み返して賛同した。 呪い、かあ。遺跡には付き物だけど、あいにくというか運良くというか、俺はまだそういうの経験したことないんだよね。 過去の探索を思い出したりしつつ、九龍は己の欲のなさに感謝した。呪いとしか言いようのない現象を、目の当たりにしたことはあるのだ。けれどそれらは大抵、金品目当ての盗掘者に襲い掛かる。《秘宝》に意思がある、と感じる瞬間だ。 《秘宝》は常に正しき者を選び、真実を求める者の手に渡る。己が「正しき者」だという驕りはないが、それでも信じたいと思う。 少なくとも、自分は《宝探し屋》として、間違った生き方はしていないと。 屋上には、初秋のさわやかな風が吹き抜けていた。 「ここが屋上ッ。風が気持ちいいでしょ?」 生徒の出入りを禁止しているのかと思えば、そんなことはないらしい。気軽に開けた扉には鍵などかかっておらず、けれどそこには誰もいなかった。 「ここから下を見るとね、天香學園が全部見渡せるんだよッ。ほら、あそこッ! あのドーム型の建物が温室。あっちがみんなの住んでる寮で、その隣に広がってるのが先生たちの家。それで、こっちの陰気そうな森の奥に少しだけ見えるのが、さっき話した墓地」 手すりを乗り上げるようにして、八千穂が説明してくれる。 「結構、墓石の数が多いでしょ?」 思わず数えたくなったが、やめておいた。つまりその数だけ、行方不明者が出ているということだ。イコール同業者だという証拠はないが、可能性はある。ひょっとしたら次に行方不明になるのは俺かもしれない、そんなことを思って九龍は苦笑した。 「行方不明者の持ち物が埋められているっていうけど、何が埋まっているかは誰も知らないんだ。ほら。校則で、墓地には入っちゃダメだっていわれてるでしょ? それに、あそこには墓地を管理してる墓守の人がいてね。お墓を掘り返そうとしたり、悪戯をしようとしたりする生徒がいないか見張っているんだ。確か―――最近、前の墓守の人から新しい人に代わったって聞いたけど」 ……うーん、怪しすぎる。 墓地を眺めながら、九龍は無意識に顔をしかめていた。入るなという校則があったり、墓守がいたり、何かありますと言ってるようなもんじゃないか。まさか埋められているのは持ち物じゃなくて、行方不明者本人だったりして。 「……でもさ、死体が埋まっているんじゃないってわかってはいても、學園の敷地の中に墓地があるなんて……ちょっと怖いと思わない?」 「いや、ちょっとどころか……」 もしかすると、本当に死体かもしれないし。思わずそう言いかけて、九龍は曖昧にごまかした。 「うん、怖いよな。あのうっとうしそうな雰囲気だけで十分怖い」 「だよねェ。確かに、さっきの月魅の話に興味はあるけど……」 職業柄、九龍は墓地も死体も幽霊も平気ではあるが、明日は我が身かもしれないと思うとさすがに薄ら寒くなる。とにかく今晩調べてみるつもりだけど、協会から別送される武器や弾薬の携帯は忘れないでおこう。そう心を引き締めた時だった。 風向きが変わった。ふわり、と鼻をくすぐる香りがした。……何だっけ、これ。花の匂い。 「ふァ〜あ。うるせェな……」 明らかにあくび混じりの、気だるそうな声がそれに重なった。 八千穂と共に声の主を探すと、死角となっていた給水塔に寄りかかり、座ってあくびを噛み殺している男子生徒が一人。 「転校生ごときで盛り上がって、おめでたい女だ」 「あッ、皆守クンッ!」 八千穂が驚いたように、かつ咎めるようにその名を叫ぶ。みなかみくん、と呼ばれた生徒は、うるさそうに片目を開けた。 天然なのか、ふわふわと顔にかかる長めの癖毛。目は二重の上に眼孔が深く、下がり気味でぼんやりとした印象を受ける。口元には、煙草と思しき細いパイプ。学ランのボタンを全部外し、派手な炎の図柄の白いTシャツを覗かせている。 おお、不良だ不良。この學園にもこういう生徒がいたのか。 「授業をフケて昼寝してりゃ、屋上で大声出しやがって。うるさくて寝られやしない」 おお、あげくサボり魔だサボり魔。感心している九龍を横目に、八千穂が心底呆れたと言いたげにたしなめた。 「どうりで、授業中に姿が見えないと思ったら。朝からずっと、ここにいたの?」 ということは、このミナカミという生徒も九龍や八千穂と同じC組らしい。 まァな、と軽くあしらって、皆守は大きくため息をついた。吐き出された薄い煙に、九龍は少し違和感を覚える。風に乗って強く香る、またあの花の香り。どうやら煙草ではないようだ。 「非生産的で無意味な授業を体験するぐらいなら、夢という安息を生産する時間を過ごした方がマシだからな」 ……な、なんだか意外に詩人な不良だな、こいつ。 更なる違和感を感じつつも、九龍は彼の台詞に半ば賛同する。まあ俺にとっては無意味な授業も、屋上で昼寝することも、どちらも非生産的な気がするけど。 起き上がった皆守は、そこで初めて、こちらに向き直った。九龍より少しだけ背が高いが、身長としてそんなに大差はない。細身ながらしっかりとした体躯、すらりと長い手足は、猫科の動物を連想させる。もしかすると運動神経はいいのかもしれない。 「お前もそう思うだろ? 転校生」 聞いてきた皆守の口調は冷めていて、別に返答を求めての質問ではないことが明確だった。それより何も映されていないような、乾いた瞳が気になった。大人びた雰囲気の彼に、九龍はわざと大げさに同意してみる。 「ああ、そうだな俺もそう思う。てかさっきの授業つまらなさすぎ、出てなくて正解だったよお前。ねえ八千穂ちゃん」 八千穂が何かを言う前に、ふっと皆守が笑った。少々皮肉げではあったが、それは九龍に向けられていた。 「なかなか、話がわかるじゃないか」 第一印象のまま、特に無表情な男というわけでもないらしい。考えてみればこの學園に来てから、男子生徒とまともに言葉を交わしたのは彼が初めてだ。 「もう……何言ってんの、皆守クンッ。大体、そんなとこで煙草吸ってたら、先生に見つかって退学処分だよ?」 予想どおり、八千穂が腕を組んで怒るように言ってくる。皆守は更に口角を上げて、挑発するかのごとく答えた。 「やれるもんならやってみろよ。こいつは、煙草じゃなくてアロマだからな。いわゆる、精神安定剤って奴だ」 アロマ、というとアロマテラピーのあれか。煙草ではないと思っていたが、なるほどアロマスティックをパイプにさして、そこに火をつけて香りを楽しんでいるというわけだ。 興味津々で皆守の口元を見ていた九龍は、最後に付け加えられた一言が気になった。 ―――精神安定剤? 少々首をかしげる。なんで、そんなものを吸っているのだろう。なんとなく過ぎった軽い疑問は、すぐにその香りに紛れて消えた。そういえばラベンダーの香りが、と八千穂が呟いている。ラベンダー。そうか、ラベンダーの匂いだったのか。 「どうだ? お前らも試してみるか?」 パイプを外して、皆守が聞いてくる。戸惑ったのは一瞬で、すぐにそれが本気ではないことに気がついた。ああ、社交辞令ってやつか。悟って、おうと軽く頷いておく。 「ふん……。病み付きになっても知らないぜ?」 皆守は再度パイプをくわえて、興味なさそうにそう言った。「意外に詩人な不良」という彼の印象は、「つかみどころのない男」に変更される。後で《H.A.N.T》に情報を追加しておこう。 「もォ〜、一人でこんなことばっかしてないで、少しはみんなと遊んだりした方がいいよ? 葉佩クン、そろそろ行こッ。皆守クン、またね」 八千穂の小言を無視した皆守が、思い出したように九龍を呼び止めたのはその時だった。 「そうだ、転校生」 唐突な呼びかけに、八千穂も九龍も訝しげに立ち止まる。 「お前が楽しい學園生活を送りたいなら、一つだけ忠告しておく」 え、何、なんだなんだと九龍は身構えた。まさか白岐ちゃんと同じように、こいつも呪い云々言うんじゃないだろうな。 「―――《生徒会》の連中には、目をつけられないことだ。いいな?」 構えていた分、予想外の言葉に少し拍子抜けした。《生徒会》、この學園に来て初めて聞く単語だった。 皆守は思いのほか真剣な表情で、じっと返答を待っている。その様子がおかしくて、なんだかからかってみたくなった。わかったと九龍は素直に頷いて、すぐ。 「転校早々愛されちゃってるね、忠告ありがとう皆守、俺も愛してるよ!」 満開の笑顔で、さらりと言ってやった。皆守が目に見えて、言葉を詰まらせるのがわかった。 「まッ、まァ、同級生のよしみだ。そんなに感謝してくれなくてもいいが……」 取り繕うように視線を外し、心なしかどもっているところを見ると、さすがに驚いて動揺したらしい。飄々とした彼の態度が崩れて、十八歳らしい素顔が見えたような気がした。 そうだよこいつ、俺と同い年なんだよ。なんかこう、アンニュイっての? そんな雰囲気がまとわりついてるから、大人っぽく見えるだけで。 「一応、忠告はしたぜ? 後は、勝手にしろ。じゃあな」 「あッ、皆守クンッ。どこ行くの?」 身を翻した背中に、八千穂が慌てて声をかける。 「屋上はうるさいんでな。新しい寝床探しだ」 そう答えると皆守は、再度じゃあなと言って去っていった。 「あ……行っちゃった」 校舎の中に消えた彼を見送って、八千穂がぽつりと呟く。 「今のが、あたしたちと同じC組の皆守甲太郎クン。いつも、ああやって独りでいるんだ。本当は、いいとこもあるのになァ……」 八千穂がそう言うのなら、間違いないのかもしれない。ラベンダーの残り香を吸い込んで、九龍は開け放されたその扉を見つめた。 みなかみ、こうたろう、ね。彼も何か知ってそうな雰囲気だったけど、とりあえず調べてみるべきは墓地と《生徒会》かな。後で色々情報を集めてみよう。 考えていると、チャイムが鳴った。昼休みも終わり間近である。 「そろそろ教室に戻ろうか? まだ少し時間もあるし」 八千穂がにっこりと笑ってくれる。 「買っておいたパンがあるんだ。一緒に食べない?」 「え、マジで?」 忘れていた空腹が怒涛のように襲ってきて、九龍は思わず八千穂の手を握ってしまった。 「やったー八千穂ちゃん、愛してるよ!」 皆守に言ったのと同じ台詞だが、彼女には効果がなかったようで。 「葉佩クン、そんなにパン好きなんだ?」 罪のない笑顔で、天然的に言われてしまう。……う、愛の対象はパンじゃなくて、八千穂ちゃんだったんですけど。 「ここの売店の焼きそばパンって、意外とイケるんだよ。早く、教室に戻って一緒に食べよッ」 連れ出されたときと同じように、強引に腕をつかまれる。階段を下りながら、まあいいか、と九龍は笑った。
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