木乃伊は暁に再生の夢を見る2nd. Discovery #1蜃気楼の少年 |
薄暗い音楽室、グランドピアノの前。そこが、彼の場所だった。 「白い指……」 くぐもった声で、誰に聞かせるともなく呟く。鍵盤を押さえる細い指。 「忘れた旋律……」 澄んだ単音が響いて、彼の鼓膜を優しく震わせる。 「《黒い砂》……」 少し離れた位置を、もう一つ。甲高い音はメロディにならず、ただ、生まれて浮遊するだけ。 「……」 彼は黙って、その余韻を耳にしていた。がらりと開いた音楽室の扉に、振り向くこともしなかった。 「あッ、ごめんなさい」 入ってきた女子生徒が驚いて、佇む彼に声をかけた。 「誰かいるとは思わなくて……。誰? どこのクラスの生徒? 暗くて、よく見えないわ」 彼は答えない。ただ、無言でピアノを見つめているだけだ。 「その……午後いちに、うちのクラスがここを使うんだけど」 「……」 「あの……?」 何も言わない男子生徒を不思議に思ったのか、女生徒は首をかしげた。振り向かないまま、彼は囁くように言葉を紡ぐ。 「2‐Bの葉山真紀だな?」 「そ……そうだけど……」 「同じクラスの男子生徒と深夜、墓地に無断で入り、著しく學園の風紀を乱した」 淡々と文書を読み上げるような口調に、女生徒はわずかな恐怖を覚えた。 「なッ、何でそれを? でも、あれは向こうが行こうって誘ってきて―――」 「墓を荒らす者は」 言い訳じみた台詞を遮って、彼はうたうように告げた。 「墓を荒らす者は、処罰しなければならない」 「え……?」 「それが、この學園の法だ」 何言ってんのよ、と慄く女生徒を無視し、彼は何もない宙に目を向ける。 「そうだよね、姉さん?」 彼の目には、血のように紅い天香學園の制服を着た、一人の少女が見えていた。愛しさの混じる呼びかけで、彼は少女に微笑みかける。 「姉さん? 何よ、誰もいないじゃない」 「姉さんはピアノが上手かった……窓から差し込む日差しの中、いつもその綺麗な指で僕にピアノを弾いてくれた……」 「何を一人でブツブツ言ってるのよ?」 本能が感じた恐怖心を、女生徒は信じようとしなかった。従来の勝気な性格を取り戻して、見るからに病弱そうな男子生徒を睨みつけた。その、刹那だった。 「……?」 少年が消えた。音もなく、ただ静かに。 「どこに行ったの?」 音楽室を見渡すが、暗いせいもあって何もわからない。 「どッ、どこにいるのよ、隠れてないで出てきたらッ!」 女生徒は半ば怒鳴りながら、自らを奮い立たせようとした。少年の声が響く。姿は見えずとも。 「……もう、今は姉さんの美しい旋律を聴くことはできない。お前のような奴が―――お前のような奴が、姉さんから旋律を奪ったんだ」 「えッ?」 唐突に、女生徒はガチャリという音を耳にした。―――ドアの鍵が閉まる音だ。 「嘘……」 慌てて走ってノブをつかむが、空回りするだけで開かない。その時彼女の脳裏を過ぎったのは、この學園に伝わる怪談話だった。 事故に遭って怪我をした女子生徒の霊が、ピアノを弾きに現れる。 綺麗な手をしている人を襲って、精氣を吸い取ってしまう。 「おや、随分と綺麗な指をしているね。その指をくれないか? 僕の姉さんのために……」 「なッ、何言ってるのッ?」 ―――一番目のピアノ。 嘘だ。あれは、よくある作り話のはずだ。その証拠に、幽霊なんていないではないか。怪談に出てきた、女子生徒の幽霊など。 必死で現実から逃れようとした女生徒は、振り返って戦慄した。 そこにいたのは、黒い拘束着のような服装と、覆面をした背の高い男子生徒。 「くれよ……いいだろ?」 青白い手が差し伸べられる。ひッ、と声が詰まって、女生徒はすくみ上がった。 「くれよ……」 「ちょッ、ちょっと来ないでよッ!」 後ずさって、逃げたはずなのだ。が、その腕は異様に細く長く、女生徒を捕らえようとする。 「指を……」 ただそれだけを求めるように、彼は更に手を伸ばした。広げられた両手のひらに、女生徒は目のような模様を見た。耳鳴り。心臓の音。凍りついた悲鳴。 「姉さん……」 紅い制服を着た幻の少女が、彼の呟きに答えるように微笑んだ。 指が欲しい。その子の、綺麗な指が欲しい。 彼女の思念が流れ込んでくる。足りない、まだ足りない、もっと、もっと。 薄暗い音楽室に、女生徒の悲鳴が響き渡る。耳障りな高音を心地よく感じながら、ただ無表情のまま、彼はそれを見下ろしていた。 二〇〇四年九月二十二日 ぐったり疲れて泥のように眠って、気づけば既に朝だった。 慌てて今日の支度を整えた九龍は、出かけに一応、隣の部屋をノックした。時間が合えば一緒に登校しようと思ったのだが、まるで返事がない。いつでもどこでも眠そうな彼のことだ、きっとまだ夢の中なのだろう。 「葉佩クン、おっはよッ!」 教室に着くなり、早速八千穂が話しかけてきた。 「昨日、あれからすぐ寝れた? 何かあたし興奮しちゃって、なかなか寝付けなくて……」 「あ、俺も俺も」 うんうんと笑って同意する。昨夜は邪魔が入ったが、また今晩にでも、一人で調べに行くつもりだった。 「そうそう、今日も墓地に行くでしょ?」 それを見透かしたように、八千穂が勢い込んで身を乗り出してくる。 「だって、あの墓石の下に開いた大きな穴―――あそこに何かありそうじゃない? 皆守クンや墓守の人は墓地に入るなって言ってたけど、そんなの無理よね。結構深そうな感じだったけど、ハシゴとかロープとかで降りられないかな」 ……駄目だ、絶対「一人で」だなんて無理そうだ。 きらきらと輝いている八千穂の瞳に、九龍は笑顔を凍りつかせた。 「もしかして、月魅が言ってた學園の秘密が、あの穴の奥にあったりして。ああ……そんなことになったら、退屈な寮生活にお別れね。スリリングだと思わない〜?」 刺激を求める女子高生は押しが強く、圧倒されるしかなかった。一般人を危険に巻き込むわけにはいかない、そんな九龍の固い決意も流されそうになっている。 確かに、危険だ。あの奥に、まだ何があるのかすらわかっていない。ある程度自分が調査した後でなら連れてゆけるのだが。 「墓地に行く時は、絶対あたしも連れてってよね。抜け駆けして一人で行ったら、葉佩クンの秘密、みんなにバラしちゃうんだから」 「え」 八千穂ちゃん、それ話が違う! 予想外の脅しに、九龍は泣きそうになってしまった。やっぱり、最初に彼女に見つかったのが運のつきだったのだ。 ああもう負けた、負けました。完全に白旗を揚げて、九龍はため息をついた。 「……おっけ。墓地に行くときは連絡する」 「そうこなくっちゃッ!」 本当に嬉しそうな八千穂を見て、すぐに心が晴れた。それでこそ相棒よねと笑う姿に、逆に勇気付けられた気がした。 大丈夫だ。何かあったときは、全力で彼女を守ればいい。守るべきものがあれば、きっと人は強くなれる。 「それじゃ、夜に墓地で待ち合わせしよッ。あたし、部活の後に行くから待っててね」 「了解〜」 「じゃ、連絡先教えとくね。生徒手帳貸して。みんなには内緒だよ」 素直な九龍に満足して、八千穂が手を出してくる。何だろうと思って渡すと、中ほどにある友人のためのアドレスページに、勝手にプリクラを貼り付けた。 「夜の方が人目につかないから、何かと好都合だよね。誰かさんがヘンな格好してても安心だし」 更に名前と誕生日と血液型、好きな色、好物まで書き込んでいる。 「……そ、そんなにヘンな格好だった?」 協会では特に珍しくもなく、あれが標準装備である九龍にとって、八千穂と皆守の指摘は少なからずショックだった。恐る恐る聞くと、うん、と即行で頷かれてしまう。まあ、わかっていたことだけどさ。やっぱり学生服ってのも合わないんだろうな。 「あァァァッ! やばッ、早く理科室に移動しなきゃ!」 手帳を返してもらうと、八千穂が急に大声を上げた。 「あたし当番だから、準備をしなきゃならないんだった。それじゃ葉佩クン、先に行くね」 ばたばたと用意をして、八千穂は教室を飛び出していった。まったく、嵐のような子だと微笑ましくなってしまう。 理科室ってどこだったかな、と九龍が記憶を探っていると、ポケットの中で《H.A.N.T》が震えた。メール受信だと見てみると、七瀬からである。 『七瀬です、初めてメールします。昨日の夜中に、八千穂さんから聞きたいことがあると電話があったのですが……なんでも、遺跡などに埋もれた宝を探し出すことを生業としている人たちについて、詳しく教えてほしいと。とても熱心に色々質問してくるので、不思議に思いましたが、あえて理由は訊きませんでした。ただ、ふとあなたの顔が思い浮かんで―――』 ……おいおいおい、八千穂ちゃーん? 何度目だろう、九龍はまたがっくりと肩を落としたくなってしまった。つまり昨日八千穂が「自分で調べる」と言ったのは、「七瀬に聞く」のと同義だったのだ。鈍い八千穂が言わなくていいことまで話している様子が想像できて、思わず頭を抱えてしまった。勘のいい七瀬のことだ。彼女にバレてしまうのも、時間の問題かもしれない。 まあ、七瀬ちゃんなら知られても大丈夫だろうけどさ。 《H.A.N.T》を閉じて、教科書とノートを準備する。いっそ事情を話して、全面的に協力してもらった方が助かるかもしれない。 そんなことを考えながら立ち上がると、いつの間にそこにいたのか、白岐の姿があった。 「……おはよう」 相変わらず遠くを見るような瞳で、それでも挨拶をしてくれる。 「おはよ、白岐ちゃん」 怯むことなくにっこり笑って返しても、白岐が笑うことはなかった。代わりに、低い声で質問される。 「葉佩さん、あなた―――もう《墓地》へ行った?」 彼女に、嘘は通用しない。何故かそんな気がして、九龍は素直に頷いた。 「そう……。それならば、気をつけることね。闇は常に私たちの傍らにあり―――その《力》に魅入られた者は、誰も逃れることはできないのだから」 白岐の言葉は抽象的で、よく理解できなかった。けれど転校生のために忠告してくれているのだろうと、前向きに捉えることにした。 言いたいことだけ言って白岐が去ると、九龍は皆守の姿を探してみた。天然パーマの頭は見当たらず、そういえば、今日はラベンダーの香りもしていないことに気づく。教室移動を誘おうと思ったのだが、どうやらやはり遅刻かサボりのようだ。 仕方がない、一人で行きますかね。 その辺の生徒に声をかけてもよかったが、この學園で《転校生》というのはどうもいわくつきらしく、まだ誰も九龍に話しかけてこようとはしない。好奇心だけが空回りしているのか、色んな意味で目立つ九龍に臆しているのか。まあ二日目だしね、と思っておく。 教室を出て、理科室は二階だったなと階段に向かった時だった。 ころん、と廊下に何かが転がる音がした。見ると、何の変哲もない石である。 「……?」 けれど勝手に転がるわけがないし、自然に紛れたにしては大きすぎる。不思議に思って拾うと、どこからか不気味な笑い声が響いてきた。 「ふっふっふ……拾ったね……」 え、何これ、拾っちゃいけなかったのか。動揺して振り向くと。 「転校生―――葉佩九龍。落ちている小石を拾い上げる。石に対して興味アリ」 分析するように台詞を読み上げる、眼鏡をかけた男子生徒と目が合った。 「やあ」 にっこり笑って、挨拶される。肩より伸びた柔らかそうな巻き毛と、長い睫毛に縁取られた瞳。女生徒に人気がありそうな、いわゆる美少年ではないだろうか。何故かガラスケース入りの、水晶体のような鉱石を抱きしめているのが気になるが。 「や、やあ!」 反射的に返すと、彼はますます笑みを深くした。 「君とは、いい友達になれそうだ。石好きに悪い人間はいないっていうしね。僕は3‐Dの黒塚至人。遺跡研究会って部の部長をやってるんだ、よろしく」 ……落ちてた石を拾っただけで、石好き友達認定? その思考回路に驚いてしまったが、くろづか・しびと、という名前にも驚いてしまった。なんか小学生とか、面白がっていじめてしまいそうだよな。死人、とか言われそうだよな。かく言う俺も、苦労とか言っていじめられそうだけど。 「こちらこそ、よろしく!」 なにやら親近感が沸いて、九龍はぺこりとお辞儀をした。それに遺跡研究会というのならば、この學園にまつわる情報が何か得られる可能性もある。 「ますますいいね、君。そうだ、一つ訊いていいかい? 君さ、ザラザラした石を見ると、舐めてみたくならない?」 「……へ?」 そんなことは初めて聞いた。呆気に取られて、手にした石を見つめてしまう。うーん、そう言われて見てみると、確かに舐めてみたいという欲求が起こらないわけでもないが。 沈黙を肯定と取ったのか、黒塚はふふふと笑った。 「いいよね……あの舌触り。石の歴史を肌で―――いや、舌で感じるっていうか。ああ……考えただけで、涎が出そうだよ。葉佩君……、君、本当にいい感じだね」 囁くように言いながら、距離を縮めて迫られているような気がして、九龍は知らず後ずさった。 「ふふふふッ、今度部室へ遊びにおいで。四階の南棟にあるからさ。それじゃあ」 そこで初めて、九龍は昨日の八千穂の案内が耳に蘇った。 ―――通常石研て呼ばれてる《遺跡研究会》とか怪しげな部もあるし、みんな南棟の四階にはあまり近寄らないけど。 なるほど今のが部長ならば、確かに怪しげな部に違いない。 「ラララ〜♪ 石は何でも知っている〜♪ ラララ〜♪ 石がどこかで見つめてる〜♪」 妙な歌を歌いながら去ってゆく黒塚を、九龍は呆然と見送ってしまった。え、えーと。 ……今の、何? 「あら、葉佩君?」 優しげな声に我に返ると、出席簿を抱えた雛川が立っていた。 「どうしたの? 廊下の真ん中に立ち尽くして、大丈夫?」 「え? あ、はい、大丈夫ですノープロブレム、モウマンタイです!」 良かった、ヒナ先生に会えて良かった。その雰囲気に癒され和まされる己を感じながら、九龍は元気よくそう言った。 「ふふふ。その様子なら、大丈夫なようね。だんだんと學園の雰囲気にも慣れてくると思うから、あまり思い詰めないようにね」 や、今のは別に思い詰めてたわけではなかったんですけど、そう思いつつ曖昧に笑っておく。 「先生もあなたと同じように、途中からこの學園に来たでしょ? 赴任初日は、ドキドキして大変だったの。だから、葉佩君の気持ちはよくわかるわ。昼休みは職員室にいると思うから、何でも私に相談してね。こう見えても、高校時代はラクロスをやっていて力だってあるんだから」 言って力こぶを作るように示す雛川は、それでもあまり力があるようには見えなかった。けれど九龍のために言ってくれていることがひしひしとわかり、ちょっと感動してしまう。 ありがとう先生、俺はもうその気持ちだけで充分です。 「それじゃ、早く授業に行きなさい。遅れないようにね」 素直に返事をして、九龍はその背中を見送った。意外に濃ゆいキャラがいたりするこの天香學園の、貴重な癒し系人物だ。そんなことを思いながら。 地学の授業はそれなりに楽しかったが、やはり五十分間机と椅子に縛り付けられるのが、九龍にはどうも耐えがたかった。 ようやく休み時間に入り、廊下に出て一息つく。あと一時間で昼休みだと時計を見た時、《H.A.N.T》がメールの受信を知らせた。差出人は、またも七瀬である。 『すいません、突然変なメールをしてしまって。送ってから、やっぱり送らなければ良かったな……と。どうか気にしないで下さい。今度、図書室にも遊びに来て下さいね。それじゃ』 すいませんッ!という件名が、かなり焦ってメールをくれただろうことを想像させた。律儀で七瀬ちゃんらしいよね、でももう気にしちゃったよ。笑って《H.A.N.T》を閉じると、あの気だるそうな声が聞こえてきた。 「ふァ〜あ、眠い。午前から授業なんて出るもんじゃないな」 ……お前はあくびをしながらでないと登場できないのか、皆守。 呆れながら、九龍は心の中で突っ込んでやる。現れた皆守はやっぱり眠そうな顔で、だらだらとこちらに歩いてきた。仕方ない、後で保健室でひと寝入りするか、などと独り言を呟くと、九龍に気づいて声をかけてきた。 「よォ、転校生。どうだ? 授業は楽しいか?」 喋るたびに口元のアロマパイプが揺れて、ラベンダーの香りが強くなる気がする。なんだかこちらまで眠気を誘われるようで、うーんいまいち、と九龍は正直に答えた。 「浮かない顔だな。まァ、教師もサラリーマンだ。過大な期待はしないこった」 楽しければそれに越したことはないが、九龍は勉強をしにこの學園に来たわけではないのである。俺は別にいいんだけど、こいつは単位とか出席日数とか、大丈夫なんだろうか。やっぱり問題児扱いされてんだろうな。そう思ってぼんやり眺めていると、思い出したように皆守が言った。 「そうだ。そういや、八千穂から聞いたんだが」 「ん? 何?」 「お前、《宝探し屋》―――トレジャーハンターなんだって?」 絶句した。不意打ちだった。 予想外の言葉に足元がよろめいて、九龍はおもしろいほど盛大にコケてしまった。どんがらがっしゃーん、ってヨシモトシンキゲキかよ……じゃなくて! や、八千穂ちゃんの嘘つきーッ! 「何、コケてんだよ……」 ていうか、そのリアクションからすると本当なのか。驚いたように目を丸くして、皆守が呆れている。 「八千穂に見つかったのが運のつきだったな」 「うう、俺もそう思う……」 派手に腰を打って、呻きながら九龍は立ち上がった。 「まッ、お前が何であれ、俺には関係のないことさ。誰でも、人に言えない秘密の一つや二つあるもんだ。俺には、そいつを誰かに喋る趣味はないから安心するんだな」 「……ああうん、皆守はそう言うと思ってた」 予想どおりだったが、実際本人に言われて安堵する。ホント、これ以上広まらないことを願いたい。素直に礼を言う九龍に、皆守は少し微笑んで、話題を変えた。 「まァ、んなことよりお前ら今日も《墓地》に行く―――」 「きゃァァァ!」 唐突に、女生徒の悲鳴がした。階下からだ。一瞬皆守と顔を見合わせた後、九龍は反射的に身を翻して、声の方へ駆け出していた。 階段を飛び降りる。背後から、皆守が慌てて追ってくる気配。二階の踊り場に、悲鳴の主と思しき女子生徒が座り込んでいた。 「あ……あ……」 震える指で、ドアの向こうを指している。 「おい、どうした?」 「お……音楽室に……」 九龍と皆守に、女生徒は泣き笑いのような表情を浮かべた。昨日八千穂から聞いた怪談を思い出して、九龍は慎重にその扉から覗き込む。女子生徒が倒れている。 「助けて……」 蒼白な顔で求められて、九龍は少女を助け起こした。大丈夫かと声をかけた次の瞬間、言葉をなくしてしまった。 手。 少女の両手が、ミイラのように干からびている。 「手……あたしの手が……」 「こいつは……」 九龍の後ろで、皆守が息を飲んだ。手首から先が色を失って、骨と皮だけになっているのだ。綺麗に塗られたマニキュアの爪が、痛ましさを強調しているかのごとく。 「あたしの手……あたしの……」 「何があった?」 少女はうわ言のように繰り返している。刺激しないよう目の高さを合わせ、腰を落とした皆守が聞くと、呻きながら呟いた。 「誰かが音楽室にいて……。あたしに飛び掛かったと思ったら、突然そこの窓から逃げ出して」 「この窓から? まるで猿だな……どんな奴だった?」 「うう……わからない……わからない……」 「思い出せッ。どんな奴だった?」 「皆守!」 重ねて強く詰問する皆守を、九龍がたしなめる。女生徒はもがくように身を捩って。 「化け物……化け物がァァァ―――」 言葉は続かず、単なる悲鳴になった。パニックを起こしたようだった。皆守が舌打ちをして、立ち上がる。 「ちッ。おい転校生、とりあえずこの女を保健室に運ぶぞ」 「了解ッ」 抱き上げると思いのほか少女は軽くて、九龍は唇を噛み締めた。一体、何があったのか。これではまるで、音楽室の怪談そのものではないか。 「おい、急患だ。いるか、カウンセラー?」 保健室の扉を開けて、先に入った皆守が怒鳴った。 「おいッ、いないのか!」 続いて女生徒を抱えた九龍が入ると、そこにいた影にぶつかりそうになった。皆守ではない、別の男子生徒だ。 「そこをどいてくれ……」 「あ、ご、ごめん」 見上げると背の高い、青白い肌をした少年だった。長めの不ぞろいな黒髪から、気弱そうな視線が覗いている。 ドアを塞いでいることに気づき、九龍が中に入って脇に避けると、少年はぼそりと呟いた。 「ありがとう……君は……誰だ?」 まっすぐ見つめられて、九龍は名前を名乗った。高い身長に加え、細い身体とあまり良くない姿勢のせいで、病弱な印象を受ける生徒だと思った。 「葉佩九龍? そうか……君が転校してきたという―――」 「何だ、取手じゃないか」 保健医を探していた皆守が、気づいて声をかけてきた。 「また保健室でサボってたのか?」 「僕は別にサボっているわけじゃないよ」 取手。聞いたことがあるような気がして、九龍は記憶を探る。その細長いシルエットが何かと重なって、思い出した。 昨日、昼休みの音楽室。ピアノの前に佇んでいた、あの生徒だ。 「最近、割れるように頭が痛くなるんだ。気を失うぐらいに激しい痛みがして。だから、保健室に薬をもらいに」 そうかと頷く皆守から、取手は九龍に向き直った。 「僕は、3‐Aの取手鎌治。皆守君とは、よく保健室で会ううちに話すようになって。といっても、僕はルイ先生にカウンセリングをしてもらいに来ているだけで……」 とりで・かまち、という名前を頭に刻み込む。八千穂は彼と顔見知り程度だろうと昨日推測したが、皆守とは保健室仲間というつながりらしい。 皆守君はサボっているだけじゃないか、俺は一日十時間ぐらい寝ないと調子が出ないんだよ、そんな会話を聞きながら、九龍は腕の中で気絶している女生徒に気がついた。ちょっと、さすがに重くなってきたんですけどっ。 「……そういえば、気になっていたんだけど。その女子、どうかしたのかい?」 「あッ、あァ、新たな犠牲者さ。前回《墓地》で行方不明になった男子生徒に続いてな。誰だか知らないが、ひどいことをするぜ」 皆守の説明に、取手は何も言わなかった。少しだけ女生徒を見つめて、暗い声で言った。 「……それじゃ、僕は行くよ……」 「たまには屋上で太陽にでも当たれよ? お前、顔色悪いぜ?」 ふらりと歩く背中を見て、皆守が眉をひそめた。それに答えることもなく、取手は保健室を出て行った。 「大丈夫かよ、取手の奴……」 「み、みなかみさーん……」 思わず、九龍は情けない声で助けを求めた。そろそろ腕が限界なのである。 「―――っと、そうだ、こうしている場合じゃない。まずは、この女をベッドに寝かせなきゃな」 ようやく気づいて、皆守は奥のベッドの一つを整えてくれた。そこに女生徒を下ろして、九龍はほっと一息をつく。 「おいッ、カウンセラーッ! いないのかッ!」 再度皆守が怒鳴ると、反対側の奥から凛とした女の声が響いた。 「騒々しいな。そんなに大声を出さないでも聞こえている」 白いチャイナ服に白衣を羽織った、清楚な雰囲気の女性だった。切りそろえた長い黒髪と、つり気味の細い目。椅子に座って煙管を吹かしながら、薄い微笑でこちらを眺めている。 「カウンセリングをお望みかい? また後にしてくれ。こっちはいい気分で一服していたところなんだ」 どうやら彼女が保健医で、カウンセラーらしい。そういえば八千穂ちゃんが言ってたっけ、中国から来たすごい美人の先生だって。 「いるなら返事くらいしろよ」 「いちいちうるさい坊やだな」 ぶっきらぼうな皆守に、こちらもぶっきらぼうにカウンセラーは返した。 「病人なら、奥の空いているベッドに寝かしておくといい。煙草を吸い終わったら診てやろう」 「あ、はい、お願いします」 思わず、九龍は素直に頭を下げた。話し方や振舞い方、皆守を「坊や」呼ばわりする大人の女性っぷりに、圧倒されてしまっていた。そんな九龍に、彼女は満足げに微笑んで。 「安心しろ。私の診察の腕は一流さ。……っと、誰だ? 君は」 「うちのクラスの転校生だ。職員会議で聞いてないのかよ?」 九龍に向ける表情と、自分に向けられる表情のあまりの違いに、皆守は更に不機嫌を煽られたらしい。何お前拗ねた顔してんだよ、九龍が覗き込むと、ふんと視線を外した。カウンセラーは思案顔になる。 「ああ、そういえば昨日の会議でそんなことを言っていたな。確か名前は―――」 「葉佩九龍です」 自己紹介してもう一度頭を下げると、彼女はわずかに目をみはって、更に微笑した。 「誰かと違って、目上の者に対する口の利き方ができているじゃないか」 誰か、というのは明白だ。皆守が無言で睨みつけているのがわかる。 「礼をわきまえている生徒は大好きだよ。私の名前は劉瑞麗」 りゅう、るいりー。綺麗な響きの名前だと思う。 「広東語の正式な名前はソイライだが、みんなは大概ルイと呼んでいる。中国の福建省から、去年この學園に赴任してきたばかりでな。學園専属の校医と、臨床心理士―――カウンセラーをやっている。怪我がなくても、何か悩みごとがあればいつでも保健室に来るといい。私が、やさしく手ほどきしてあげようじゃないか」 フフフッと笑われて、九龍は内心の動揺を押し隠した。大抵の男子生徒はデレデレする、と八千穂は言っていたが、これでは確かに、当然のような気がしてならない。な、なんですか俺、ひょっとして何か誘われちゃってますか、などと思ってしまっても仕方ないだろう。 「お、お願いします」 努めて平静を装ったが、語頭が震えてしまった。瑞麗は気づかなかったのか、気づかないふりをしてくれたのか、君たちの心身状態を管理するのも私の仕事だ、と続けた。 「んなこと話してる場合じゃないだろッ!」 二人の間の妙な空気を壊す勢いで、皆守が言った。その声の荒げように、九龍は少しだけ引っかかる。もしかして皆守ってば、ルイ先生のこと気になってたりして。だから、俺が気に入られたらしいことが気に入らなかったり? まさか、サボりと称して保健室通ってるのも。 「こいつを見ろよ。手が干からびてて―――」 九龍の思考はそこで中断された。そうだ、そんなことを考えている場合じゃない。問題は、この女子生徒だ。 「なるほどな」 ベッドに寝かされた彼女を見て、瑞麗はわずかに眉を寄せた。 「まるで枯れ木だな……精氣が吸い取られているかのようだ。どこで見つけたんだ?」 「音楽室に倒れていたのさ」 「音楽室に? そうか……」 「何か知ってるのかよ?」 「いいや」 瑞麗は丹念にその手を診ながら、首を振った。 「君たちは授業に戻れ。後は私に任せておくといい」 「……そうだな。保健室に運んだだけで十分だろう」 同意を求めて九龍を見ると、皆守は保健室の外へ促した。 「これ以上関わって、俺たちも厄介な面倒ごとに巻き込まれるのはゴメンだしな」 言ってアロマを吹かす皆守を、瑞麗は意味ありげな視線で見つめていた。 「じゃ、後はよろしく頼むぜ」 「ああ」 彼女に任せれば安心だろう。九龍はそう思って、皆守と共に保健室を出る。それより、何があったのか調べる必要がある。単なる興味ではなく、それは《宝探し屋》の勘だ。 「……さてっと。そろそろ昼休みだ。保健室が使えない以上、俺は屋上で昼寝でもするかな」 「お前、また寝る気かよ……」 マジで一日十時間睡眠かよ。呆れる九龍に背を向けて、皆守は階段に向かった。じゃあな転校生、と言ってから、すぐに言い直す。 「―――いや、葉佩九龍」 なんだ、名前覚えててくれてたのか。 初めて、自分の名前をその口から聞いたような気がする。振り向いた皆守は、これまた初めて見る、どこか親しげな笑みを浮かべていて。 「お前となら、何か上手くやっていけそうな気がするぜ」 「……へ?」 続けられた予想外の言葉に、九龍は目が点になった。何だ、何がきっかけだ。どこでそう思ってくれたんだ? 「……そうだ」 思いついたように、皆守が手を伸ばしてきた。寄越せと言いたげな顔に、わけがわからず九龍はクラスメートを見つめる。 「え? 何?」 「手帳だよ」 手帳、って生徒手帳のことか。胸ポケットから差し出すと、皆守は八千穂と同じように、友人のアドレスページにプリクラを貼り付けた。 ……天香學園では、これが友人の証としての通過儀礼なのかもしれない。そういえば、寮の娯楽室にプリクラが置いてあったっけか。今度撮っとくべきか。 「俺も気が向けば、お前の夜遊びに付き合ってやるよ」 「……夜遊び?」 意味深に強調されて、九龍は苦笑した。つまり、八千穂と同じだ。 「《墓地》に行く時には教えてくれ。じゃあな」 ああ、やっぱりそう来るのか……。 昼休みのチャイムが鳴る。軽く手を挙げて、皆守は階段の方へと向かってゆく。 九龍は半ば諦め状態で、その後ろ姿を見つめていた。彼は単なるクラスメートから、友人と呼べる存在に昇格したらしい。 小さな喜びを自覚して、返された生徒手帳を大事にしまった。
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