木乃伊は暁に再生の夢を見る

2nd. Discovery #2










 昼休み、である。
 一緒に昼食を取る友人―――八千穂や皆守を探して、とりあえず九龍は校内をうろついた。皆守は屋上に行くと言っていたが、昼食はどうするのだろう。少し考えて、まず保健室に向かう。女生徒の容態が気になったのだ。
「やあ、葉佩」
 瑞麗が笑顔で迎えてくれた。聞くと、彼女は安静にしているらしい。元に戻るかどうか―――それはわからないと言う。
「彼女の手は、精氣が吸い取られているとしか言いようがない。吸い取った張本人なら、解決方法を知っているかもしれないが……」
「……なるほど、つまり犯人探しが必要不可欠ってわけですね」
 九龍は少し考え込んだ。音楽室にいた誰かは女生徒を襲い、窓から逃げ出したという。二階ぐらいなら、飛び降りることもできなくはないだろうが。
「ところで、葉佩はどうだ?」
 難しい顔をしている九龍を、瑞麗は微笑ましげに見つめる。
「慣れない學園生活で、体調を崩したりはしていないか?」
「え、俺ですか、俺は元気なもんですよ!」
 ご心配ありがとうございます、九龍は笑顔で答えてみせた。元気有り余るような返事に、何よりだと瑞麗は笑う。
「ま、何かあったらまた来るがいい」
「はい、よろしくです」
 失礼しますと頭を下げて、九龍は保健室を後にした。と、ちょうど職員室から八千穂が出てくるところだった。
「あ、葉佩クン!」
 探してたんだよ、と彼女はぱっと明るい顔になった。が、すぐに一転して声を落とし、申し訳なさそうな上目遣いになる。
「あの、ごめんね、皆守クンに葉佩クンのこと喋っちゃって。あの後、色々とツッコまれちゃって、ごまかしきれなくなって……」
「いやいやいや、気にしなくていいって」
 どんどん語尾が小さくなる八千穂に、九龍はにっこり微笑んだ。
「だって、皆守だし。ね?」
 それ以上言わなかったが、八千穂もわかってくれたようだった。
「そうだね、皆守クンなら他の人に言いふらすようなことはしないと思うし。大丈夫、安心してッ。あたしもまだ他の人には何も喋ってないよ」
「うん、ありがと八千穂ちゃん。ホント、約束ね?」
 唇に人差し指を当てて、小首を傾げてみせる。八千穂は少し頬を染めて、えへへッ、そう言ってもらえてよかった、と照れくさそうに言った。
 昼は友人とマミーズに行く約束したと、残念そうに言って駆けてゆく八千穂を見送り、九龍は売店に向かった。 ……しかし、皆守がねえ。
 確かに彼に問い詰められて、八千穂が秘密を守り通せるとは思えない。意外だったのは、問い詰める皆守の方である。
 他人のことなど関係ない、どうでもいい、そんな飄々とした態度が思い出される。九龍の正体を知った後も、実際そのようなことを口にしていたが。
「……ホント、よくわからない奴だ」
 胸ポケットの生徒手帳を思い出して、知らず九龍は笑ってしまった。
 売店で適当にパンを買い、次は図書室に向かう。七瀬がいれば何か聞こうと思ったのだが、そこにいたのは白岐だけだった。
「葉佩さん……あなたに一つだけ、忠告をしておくわ」
 大判の画集を見ていた白岐は、相変わらず読めない表情で言う。
「これ以上、《墓地》には近づかないで。もしも自分が大切なら、あそこにだけは……」
 ―――何があるのだろう。白岐は、何を知っているのだろう。
「本当に、あの場所には近づかないで。あなたのためにも、この學園のためにも」
 抑揚のない声だったが、そこには切実な何かがあった。是とも否とも明確な返事ができないまま、九龍は図書室を後にする。
 ……屋上で、風にでも当たるかな。
 なんとなくそう思って、同じだなと九龍は苦笑した。昨日も白岐に会った後、新鮮な空気でも吸おうと八千穂に誘われたのだった。
 足取りをなぞるように、屋上への階段を上がる。昨日と同じ青空の下、昨日と同じように給水塔にもたれて、皆守が惰眠を貪っていた。
「よう、葉佩」
 気づいて、声をかけてくれる。パイプをくわえたままのせいか、言葉は明瞭ではなかったが。
「どうだ? この學園は。なかなかにろくでもないトコだろ?」
 それでも、彼が自分を《転校生》と呼ぶことはもうないだろう。
 その事実を改めて、噛み締める。初めてできた、同世代の友人。
「……なんだ、何笑ってんだ。否定か? 肯定か?」
「んー、どっちでもない、かな」
 曖昧に言うと、皆守はわずかながら皮肉げに笑ってみせた。
「ふん……そういう割には、興味津々って顔だな。お前の狙いは何かは知らないが、お前がこれからここで何をする気なのか―――。俺もそいつには、少々興味があるぜ」
「ふーん、少々、ねえ?」
 九龍も皮肉混じりの笑顔で、わざと覗き込んでやった。まったく、言葉裏腹な奴だなあ。知ってんだぞ、八千穂ちゃんを問い詰めたこと。なんだかんだ言いつつも、俺のこと気にしてくれてるくせに。
「……んだよ?」
「いーえ、なんでも? そうだお前昼飯まだだろ、パン食うか?」
 訝しげな顔をしていた皆守は、話をそらした九龍を睨みつけた。けれど買ってきたパンをにこにこと取り出す姿に、あからさまにため息をついて。
「……カレーパンだったら食う」
「なんだそれ」
 子供のような主張に笑いつつ、望みどおり、九龍はそれを奢ってやった。




「おい、聞いたかよ? 二年の葉山が襲われたって話」
「あァ、聞いた聞いた。保健室に担ぎ込まれたって、見た奴が言ってたぜ」
「手が燻製のように干からびてたっていうけど」
「呪いだよ、呪い」
「しばらく何もなかったのに……何でまた今頃?」
「次は誰が行方不明になるのかしら?」
 放課後、3‐Cの教室はざわざわと好き勝手に盛り上がっていた。この學園の生徒である以上、彼らもまた当事者なのに、実際自分の身に起こらなければ他人事でしかないのだ。
 ぼんやりと会話を聞きながら、帰り支度を整えていた九龍は、教室の入口で呼んでいる七瀬に気がついた。
「こんにちは。あの……すいませんでした。送ったメールのことは気にしないで下さい」
 開口一番、深くお辞儀をして謝られる。
「いや大丈夫大丈夫、七瀬ちゃんこそ気にしないで」
「はい、あの、そッ、それよりもちょっと話をしたいんですがいいですか?」
 九龍の笑顔に勇気づけられたのか、七瀬は身を乗り出すようにして言ってきた。もちろん、断る理由はない。何かわかったのだろうか。
「古人曰く―――『好奇心は力強い知性のもっとも永久的な特性の一つである』―――何事にも好奇心を持ち、その真実を追究しようという姿勢は大切です」
 手にした本をめくり、前置きのようにそう言って、七瀬は少し声を潜めた。
「実は、書庫に埋もれている古い文献をずっと調べているんですが、やっぱりこの學園には何か隠された秘密があるようなんです。まず、この學園の名前である《天香》―――
 かみよし。九龍は最初、その名を正確に読むことができなかった。外国育ちとはいえ、日本語は普通に話せるし読み書きもできるが、そんな読み方は初めて知ったのだ。
「この《天香》という言葉は『古事記』に登場しています。葉佩さんは《天香山》―――あめのかぐやま、というのを知っていますか?」
 古代史の知識も重要な《宝探し屋》であるが、九龍はどちらかと言うと世界史の方が得意で、日本の古代史にはあまり明るくなかった。聞いたことはあるのだが、恐らく文献を読み流した程度なのだろう。詳しくは思い出せない。
 難しい顔をしていると、七瀬が簡単に説明してくれた。
「《天香山》は、日神である天照大御神が天の岩屋戸に閉じこもってしまい、世界が闇に包まれたという天岩屋戸神話に出てくる山の名前です。日本各地で天香久山や天香具山―――単に香久山とも伝えられていますが、古代日本神話において、重要な役割を担っているんです」
 眼鏡を上げる仕草で一息つくと、九龍が頷くのを待って、七瀬は続けた。
「例えば―――《天香山》は、神話だけでなく大和朝廷の祭祀に利用されたともいわれています。『古事記』に記された、鹿の骨と榊による卜占だけでなく、山の埴土を使って八十平瓮を作り、天神地祇を祀ったと『日本書紀』にも記されていますし……」
 うわ七瀬ちゃん、なんだかよくわからない単語をすらすらと並べないでっ。
 九龍はますます難しい顔をしたが、口を挟むのもなんなので黙って聞いていた。うう、後で勉強しなければ。ヒナ先生の授業で『古事記』が教材になってるけど、ちゃんと読んだ方がいいだろうな。図書室で探してみよう。
「そんな重要な名前が付けられたこの學園が、日本の古代史と何も関係がないとは思えないんです。昔、この場所で何かあったか。それとも、今でもどこかに何かが眠ったままなのか。葉佩さんなら、きっと―――
「ん?」
 聞いたことのない単語が多かった台詞の中で、いきなり自分の固有名詞が飛び込んだ。え、俺が何、どうしたの?と思って七瀬を見ると、彼女は慌てたように本を抱きしめている。
「あッ……いえ、別に深い意味ではなく、葉佩さんって何か只者じゃない雰囲気があるっていうか、その……」
 焦っているせいで、またも眼鏡がずり落ちている。彼女なりに気遣ってごまかしてくれてるんだろうな、と九龍は思った。つまり、既に正体はバレバレということなのだろう。……ま、もう、いいんだけどね。
「まッ、まァ、とにかく」
 眼鏡を直し、こほんと咳払いをして、七瀬は気を取り戻した。
「私も、色々調べてみますから。葉佩さんも何か調べたいことがあったら、いつでも図書室に来て下さい。私でよければ、力になりますから。それじゃ―――
「うん、ありがとう」
 早速、明日からでも。そう言って、九龍は手を振った。
「あッ、そうだ。一つ言い忘れてました」
 教室を出て行こうとして、七瀬が振り返る。
「《天香山》には、神聖な山という以外にもう一つ意味があることがわかったんです」
「……意味?」
「はい。《天香山》の《かくやま》とは、《欠く山》。つまり《あめのかぐやま》とは、《天を欠く山》という意味があるんです」
 持っていた本の表紙に、七瀬は指で『欠』という漢字を書いた。
「《天を欠く山》……。普通、山は天に向かってそびえています。それを欠くということは、天に向かっていないということ。天に向かっていない山なんて、あるのかしら?」
 最後の方は独り言だった。自分の世界に入った七瀬につられて、九龍も考えてみる。
 天に向かわない山。天の逆は、地だ。とすれば、地に向かってそびえる山、ということになるのだろうか?
「……あッ、ごめんなさい考え込んでしまって。それじゃ、また」
「あ、うん。またね」
 今度こそ教室を出てゆく後ろ姿を見送り、九龍は知らず足元に目を落とした。
 《天香山》は、《天を欠く山》。その名が付けられたこの學園に、地に向かってそびえる山があったとしたら。
 ―――その頂には、何があるのだろう。何が、眠っているのだろう。
「おい」
 ラベンダーの香りがして、九龍は顔を上げた。
「どうしたんだよ、深刻な顔して」
 帰り支度を済ませた皆守が、不思議そうな表情で立っている。
「一緒に寮まで帰ろうぜ。それとも、八千穂と一緒に帰るのか?」
「八千穂ちゃん?」
 なんでそこでいきなり彼女の名前が、と九龍は思わず教室を見回した。残っている生徒は少なく、八千穂の姿も既にない。
「まァ、八千穂はテニス部の練習があるとかで出ていっちまったからな。ここは帰宅部の俺に付き合えよ」
「ああ、お前も帰宅部だったのか。道理で」
 何が道理でだ、そう言いたげに皆守は眉を寄せた。
「ふァ〜あ。それじゃ、行こうぜ。何か今日は動き回ったんで、よく眠れそうだ」
「動き回らなくったって、いつでもどこでも寝れるくせに……」
 呟いた途端、後頭部に軽い衝撃が来た。皆守に軽すぎる鞄で小突かれたのだと知り、九龍は瞬きを繰り返した。
「あ〜、だりィ。行くぞ。下校の鐘だ」
 何事もなかったかのように、皆守が教室を出てゆく。おお、もしかして初ツッコミ? 相方みたいでちょっと嬉しいかも。
 小走りで駆けて追いついて、下足箱で靴を履き替えた。並んで歩いて、校舎を後にする。
 校庭には、部活動中の生徒が見えた。夕陽を浴びながら練習に励んでいる姿を、九龍は眩しそうな目で眺めた。立ち止まったその視線をなぞって、皆守が呟く。
「陸上部の連中もよくやるぜ。ぐるぐる同じ場所を走り回って、何が楽しいんだか」
「ま、あれは練習だろうし。それだけじゃ、やっぱり楽しくはないだろ」
 言いながらも、九龍の目は生徒たちを追う。《宝探し屋》としての基礎トレーニングで、九龍も同じようにただぐるぐる走り回っていた頃があった。楽しくはなかった。無心だった。それは、独りだったからだ。仲間がいればきっと、ただの練習も楽しいに違いない。
「そうだ、寮に帰る前にマミーズにでも寄っていくか。さすがに腹も減ってきたしな」
「おっ、賛成!」
 皆守の提案に、九龍は喜んで手を挙げた。食事も同じだ。誰かと過ごした方が楽しく、美味しく食べられるに違いない。一人だった昨夜のマミーズと、皆守と二人で食べた今日の昼食を思い出して、比べてみれば歴然だった。
 何を食べようかな、と九龍がマミーズのメニューを思い描いた時だった。
「やッ、やめろッ!」
 くぐもっていながら、悲鳴じみた声が聞こえてきた。
「僕に近寄るなッ、あっちへ行けッ!」
 泣きそうなその響きに、九龍は皆守と顔を見合わせる。
「この声は取手?」
「みたいだけど……」
 互いに首を傾げて、声のした方を探した。
「《砂》だ……《黒い砂》だ……。やめろッ、こっちに来るな! やめろォォォッ!」
 叫びながら、向こうから取手が駆けてくるのが見える。何かに追われているのか、必死の形相をしているが。
「はァ……はァ……あッ、君は……」
 二人の前まで走ってくると、息を整えて取手は顔を上げた。こ、こんにちは、と普通に挨拶をしてくる。
「どうしたんだ、取手? 何かあったのか?」
「何がだい?」
 皆守の質問に、彼は不思議そうに聞き返した。
「何が……って、今慌ててこっちに駆けてきたじゃないか。向こうに誰かいるのか?」
「いいや……誰もいないよ。何でもないんだ。心配してくれてありがとう」
 取手が来た方向を見てみるが、確かに誰もいないし何もない。再度、九龍は皆守と顔を見合わせた。
「……まァ、お前の事情だ」
 皆守がラベンダーのため息を吐いて、さらりと言った。
「お前が何でもないって言うなら、それでいいさ。俺には関係ないことだしな」
 出たな、皆守の口癖。
 アロマを燻らせている横顔を見て、どこまで本気で言っているのだろうと九龍は思う。
「あれ?」
 みんなで何してんの、と突然視界の端に八千穂が滑り込んできた。部活中なのか、まだテニスルックのままだ。
「こんなところに集まって、何をしているんだ?」
 その隣に、背の高い女性が立った。瑞麗だ。
「八千穂とカウンセラー……。何で、お前らが一緒に?」
 珍しい組み合わせに、皆守が心持ち目を見張る。
「玄関で靴を履き替えてたら、ちょうどルイ先生に会ったんだ」
「授業が終わったら、まっすぐ寮に帰った方がいい。どうやら、この學園には化け物が出るらしいからな」
 あまり真剣ではない口調で、揶揄混じりに瑞麗が微笑んだ。無邪気な八千穂が応える。
「化け物って、二年の子を襲ったっていう?」
―――と、生徒たちは噂しているようだな」
「ふんッ」
 現実主義者らしい皆守が、鼻で笑って天を仰いだ。
「化け物だの幽霊だの、下らないぜ」
「でも、襲われた子が見たって……」
「どうせ錯覚さ」
「え〜」
 ロマンティストらしい八千穂は、皆守の冷たい言葉に唇を尖らせた。
「それよりお前、部活じゃないのかよ」
「今日は早く上がったんだ〜。だってほら、墓地探検に備えて色々準備とかあるじゃない?」
 一転して、八千穂は嬉しそうな顔になる。本気で行くつもりかよ?と皆守が呆れた。
「あったり前でしょッ。こんな面白そうなこと、見逃す手はないし。ね〜葉佩クン」
 語尾にハートマークがつきそうな口調で言われて、九龍は及び腰になってしまった。え、あ、うん、まあね、と気のない返事をしてしまう。
「何よ、そんなに神経質になることないじゃない。あの穴の奥に、化け物とか棲んでるっていうなら話は別だけどさ」
 ……本当に棲んでるかもしれないから、一般人を伴うことに躊躇してんでしょーが。
 こっそり心の中で呟くが、そう言うと余計に面白がる可能性もあるので、秘めておく。
「……君たち、墓地に行くつもりなのかい?」
 ずっと黙っていた取手が、突然口を挟んだ。
「夜の森は暗くて危ないよ。その闇の奥に何が潜んでいるかわからないし……。あそこに足を踏み入れるのは、止めた方がいい」
 君のためを思って、言ってるんだ。
 まっすぐ九龍を見つめて、取手は視線を外さなかった。思いがけず、真剣な表情だった。
 白岐も同じことを言っていた。あなたのため、學園のため。……何だ、何なんだ。あそこには一体、何があるってんだよ?
「……ありがと、取手クン。心配してくれるのは嬉しいけど―――
 言葉をなくした九龍の代わりに、八千穂が優しく言ってくれる。その瞬間、取手が頭を押さえた。
「うう……」
「取手クンッ!」
「あ……頭が痛い……」
 辛そうに目を閉じて、その場にうずくまってしまう。救いを求めて、八千穂が瑞麗を見上げた。
「保健室へ行くか? 生徒会に鍵を貸してもらえば、校内に入れる。ほら、私の肩に手を―――
「いえ……大丈夫です」
 まだ眉間にしわを刻みながら、それでも取手は気丈に立ち上がった。瑞麗の手を、はねのけたようにも見えた。
「取手クン、どこか具合でも悪いの?」
 心配そうに、八千穂が言う。
「具合が悪くなったら、いつでも遠慮なくあたしたちに言ってよ。保健室に連れてってあげるからさ」
「……君たちでは、僕を救うことはできないよ」
 答えた取手の突き放した言葉に、わずかな沈黙が降りた。八千穂も九龍も、一瞬何を言われたのかわからなかった。低く囁くような声には、どこか嘲りが含まれていたのだ。
「僕のことは、ルイ先生がよく知っているから訊いてみるといい。ルイ先生でさえ、僕を救えないんだ。君たちが、救えるわけがない」
「取手……」
 さすがの瑞麗も驚いたのか、絞り出すようにその名を呼ぶ。
「かまいませんよ、ルイ先生。僕のことを話してもらっても。いや、むしろ知る必要がある。僕が先生にどんなカウンセリングを受けているか知れば、僕に関わろうなんて思わなくなるだろうから……」
 瑞麗は黙って、取手を見ていた。その言葉の奥にある、本音を探ろうとしているようだった。
「じゃ、僕はもう行くよ。行かなければならないところがあるんだ……」
 遠くを見る目で、取手が言った。それじゃ、とそのままふらふら歩いていってしまった。
「取手クン……」
 九龍も、八千穂も、皆守も、瑞麗も、しばらくそれを見送った。やがて校舎を曲がり、姿が見えなくなると、八千穂がぽつりと呟いた。
「ルイ先生……取手クンは、何で先生に心理療法を?」
「……そうだな。本人が君たちに聞いてもらいたいと望むならば、聞かせてやってもいいだろう」
 持っていた煙管を少し吸って、瑞麗は煙と台詞を吐く。
「あの墓地と、取手の心の関係を」
 ―――墓地?
 思ってもみなかった単語に、九龍は目を丸くした。何で、そこで墓地が出てくるんだ?
「墓地がどうかしたんですか?」
 八千穂も同じ気持ちだったらしく、驚きながら瑞麗に言う。
「取手の心の闇の大半は、あの墓地に由来していることがわかっている。あの子の墓地に対する過敏な反応が、それを物語っているからな。ただ、どう関係しているのか、それがまだつかめないのさ」
 瑞麗は墓地の方を見つめ、再度煙草を吸って。
「人は極度の心理的圧迫により、無意識下にある心の防衛機構が働く場合がある。《防衛規制》といってな―――それにより、精神的破綻を防ぎ、心の均衡を保とうとするのさ。例えば、現実にあった出来事を、まるでなかったかのように振舞ったり。逆に、存在もしない物を見たといったりして。私も何度かあの子にカウンセリングを試みたんだが、心を覆う闇は思った以上に深い……」
 つまり取手は《防衛規制》を働かせてはいるものの、それでも心を支えきれないがゆえに、苦しんでいるということなのだろうか。自分の心の闇―――墓地に関する何かのせいで。
「そういえば、取手クンが変わったのは、お姉さんが病気で亡くなってからだって聞いたことがある……。もしかしたら、お姉さんのことがずっと心の傷に?」
 亡くなった姉。―――大切な者の死、か。
 うつむいた八千穂の言葉を聞いて、少しだけ、九龍は胸が疼いた。覚えがある痛みだった。自嘲して呼吸を落ち着けると、やがて何事もなかったかのように消えた。これでいい、自分はもう大丈夫。けれど、取手は。
「私も他の先生方や取手の両親から、姉の取手さゆりのことは聞いた。取手の姉は、この天香學園の生徒だったらしい。ピアノがとてもうまく、コンクールにも優勝するぐらいの腕を持っていたそうだ。だがある日、音楽室で女友達とふざけていた時に、たまたまピアノの脚が折れてその下敷きに……。その事故の後遺症で、以前のように両手の指が使えなくなったとされている」
「そんな……」
 怪談『一番目のピアノ』で伝えられている出来事に似ていると、九龍は思った。まさかその事実が元となり、噂に尾ひれがついて怪談になったのだろうか。愕然と呟く八千穂に、瑞麗は軽く首を振る。
「だが、真実はそうではない」
「え?」
「取手の姉は、既に病に侵されていたそうだ。主治医がそう証言している。巧みに動く指や、ピアノを弾き続けるために必要な体力さえ、奪うほど重い病気にな。姉を崇拝していた弟が、その真実を知った時の衝撃は、想像に難くないさ」
 それじゃ、やっぱり、お姉さんのことが。
 八千穂はうつむいたまま、泣きそうな顔をしている。なだめるように微笑んで、瑞麗は続けた。
「そうだな。それが引き金になって《防衛規制》が働いているとも考えられるし―――そうでないともいえる」
「……?」
「何故なら、あの子の記憶からは姉の死に関する部分がごっそり抜け落ちているのさ。まるで、何か忌まわしい呪いにでもかかって、封印されているかのようにね……」
「ちッ、また呪いかよ」
 アロマを吹かしながら聞いていた皆守が、忌々しげに舌打ちをした。つられて、九龍も空を仰ぎたい気分になった。
 記憶から、抜け落ちている。それは、取手の中ではまだ姉が死んでいない、ということになるのだろうか。呪いにかかって、封印されたかのように。
「姉の死の記憶が失われているにも関わらず、心が救われることがない。一体、何があの子をそうさせているのか」
「……」
 皆守は黙って、アロマを吸い込んだ。八千穂がわざと明るく言った。
「でも、墓地に関係する何かが取手クンの心の傷になっているのなら、それを解く鍵は墓地にあるのかも。怪しげな穴もあったし……」
「穴? そういや、さっきもそんなようなことを言っていたな?」
「昨日の夜、墓地の墓石の下に人が通れそうな穴を見つけたんです。暗くてよく中は見えなかったけど、もう、いかにも怪しいって感じの穴で……」
「穴か……。私が探した時は、そのようなものが見つからなかったが」
 煙管をもてあそびながら、瑞麗がひとりごちる。墓地には何か秘密があると、彼女も調べてみたことがあったのだろう。さすがだなと九龍は感心した。
「もし、取手クンの失われた記憶を取り戻す鍵がどこかにあるとしたら、絶対、あの穴が怪しい気がするな。あたしの勘って、結構当たるんだ。あたしたちで取手クンの力になってあげよ、ねッ?」
 単なる好奇心だけではなく、実益を見出した八千穂の言葉は力強い。もちろん、と九龍は応えてみせた。
 元々、あの中は徹底的に調べるつもりだったのだ。それが取手を救える何かにつながるなら、進んで協力しようと思う。八千穂は嬉しそうに笑った。
「うんッ、友達だもんね!」
 あまり親しくはなくても、この學園の生徒というだけで、彼女にとっては誰もが「友達」なのだろう。笑い返すと、これ見よがしの大きなため息が聞こえた。皆守である。
「俺はお前の勘だけで振り回されるなんて、ゴメンだからな」
 見れば口調だけでなく、表情も明らかに不機嫌で。
「俺たちがどうしようと、あいつの問題はあいつ自身でしか解決できないさ。取手の過去に何があろうが、どんな傷を抱えてようが、他人には所詮関係のない話だ」
 皆守のそれは、口癖だと思っていた。けれど今ラベンダーと共に吐かれた言葉には、いつもの気だるそうな雰囲気が感じられない。
「別に、取手だけの問題じゃない。そんなの誰の力も借りずに、自分の力で乗り越えてゆくべきことだろ?」
 ただ冷たく、乾いた瞳。まっすぐ、九龍を見つめてくる。
「……それも、そうだと思うけど。でも」
 負けじとその目を睨んで、九龍は反論した。
「でも、自分の力には限界がある。そんなときは、誰かの力を必要としたっていいじゃないか。必要とされてなくても、救える可能性があるのなら、誰かが力を貸してあげたっていいじゃないか」
「ふん。お優しいこったな」
 視線をそらして、皆守は笑った。嘲笑だった。
「それじゃ、聞くが。お前は取手のような人間を、この先もいちいち助けていくつもりなのかよ? そんなことはできないだろ? だったら、余計な首を突っ込まないことだ」
 畳み掛ける言葉には、苛立ちと怒りが混じっている。煽られているようで、九龍も思わず語気が鋭くなった。
「決めつけるな。助けられるかもしれないし、助けられないかもしれない、それはやってみないとわからない。なのにお前は、ただ黙って見てろって言うのか?」
 二人の間に、剣呑な沈黙が爆ぜた。しばらく睨み合って、やがて皆守が低く呟いた。
「……これだけ言っても、わからないとはな。取手のことは放っておけ」
「何でそんな薄情なこと言うのッ? クラスは違うけど、同じ學園の友達じゃないかッ」
 割り込んで、八千穂が叫ぶ。その顔を一瞥し、皆守はアロマパイプを外した。
「俺は嫌いなんだよ。悲劇の主人公ぶる奴も、偽善者ぶってる奴もな」
「……」
 込み上げてくる怒りを抑え込んで、九龍は拳を握り締めた。何だよお前、その言い方は。別に俺は偽善者ぶってるわけじゃないし、取手だって、悲劇の主人公ぶってるわけじゃないだろう。
「皆守クンが行かなくても、あたしたちは行くよッ」
 八千穂が怒ったように、早口で決意を告げた。黙って生徒たちのやり取りを見ていた瑞麗が、そこで静かに口を挟んだ。
「私は全能でもないし、神の癒し手を持っているわけでもない。自分が誰の、どんな悩みも取り除いてあげられるとは思ってもいない」
 張り詰めていた三人の空気が、その凛とした声に解けてゆく。
「だから、思うのさ。同じ學園の生徒たちである君たちになら、あの子も私に話してくれないことを話してくれるかもしれない。閉ざされた扉を開くための鍵は、案外近くに転がっているのかもしれないとな」
 取手は、自分のことを話していいと言った。そうすれば、関わろうなどと思わなくなるからと言った。
 それは、逆なのかもしれない。救いを求めているからこそ、知ってほしいと。そしてできることなら、手を差し伸べてほしいと。
 降りた静寂に、皆守がまたため息をついた。花の香りをまとわりつかせて、背中を向けた。
「……そう思うのなら、勝手にやれ。ただし、俺を巻き込むな」
「皆守クンッ」
「じゃあな」
 八千穂の呼びかけに振り向くこともなく、寮に向かって歩いてゆく。かける声が見つからず、九龍はただそれを見送った。
 よくわからないけど、どうやら喧嘩してしまったらしい。何だよ、せっかく友達になれたと思ったら。
「……あんな皆守クン、初めて見た……」
 皆守の去った方角を眺めながら、半ば呆然として、八千穂が呟いている。
「取手クンのこと、保健室仲間だって言ってたのに。どうしたんだろ……?」
 まだ出逢って二日目だが、九龍も初めて見たと思う。射抜くように貫いてきた瞳は、研ぎ澄まされた刃に似ていた。ますます、彼がわからなくなった。
「……まァ、いっか」
 暗い空気を吹き飛ばすように、八千穂がわざと元気よく言った。
「無理強いしても仕方ないし。それに、葉佩クンさえ来てくれれば心強いしねッ」
 彼女が笑えば、それだけで周囲が明るくなる。心強いのは、もしかしたら俺の方かもしれない。おう任せとけ!と答えて、九龍は微笑んだ。
「私は君たちが墓地を調べている間、《生徒会》や教師を引き留めておこう」
 瑞麗も微笑んで、そう言ってくれる。
「気をつけて、行くんだ。くれぐれも、無理はするんじゃない」
「は〜いッ」
 敬礼の真似事をして、九龍は八千穂と笑い合った。
 さあ、いよいよだ。
 二人で寮に向かって歩きながら、ポケットの中の《H.A.N.T》を確かめて、九龍は気を引き締めた。






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