木乃伊は暁に再生の夢を見る

2nd. Discovery #4










 落ちる、というよりも滑るという感覚を認識したのを最後に、九龍はゆっくりと意識を浮上させた。痛むところはないか、素早く全身の神経を確認する。《H.A.N.T》が何も言わないところをみると、どうやら異常はないらしい。
 そこでようやく背中の重みと、何故か温かい地面を認識した。目を開けて見ることで、その両方が人間だということに気づく。つまり上に八千穂、下に皆守。九龍はその間に挟まれた状態で、うつ伏せに倒れていたのだった。
「……重いんだけどな」
 目を合わせた皆守が、明らかに不機嫌そうに呟いた。吐息がかかる至近距離で、そのラベンダーが強く香る。
「……だろうな」
 思わず顔をしかめながら、九龍も憮然と呟き返した。が、皆守を押し倒した九龍の上には八千穂が乗っていて、すぐに身を起こせる状態ではない。
「それに、痛い。お前、その服の下に何を仕込んでんだ?」
「そりゃまあ、弾薬とか爆弾とかナイフとか……わっ」
 答えの途中で、唐突に皆守が大きく息を吐いてきた。ため息ではなく、あからさまにアロマの煙を吹きかける仕草だった。もろに顔に浴びた九龍は、吸い込んだ匂いにむせてしまう。
「何すんだよ!」
「さぞかし血生臭いだろうと思ってな。おすそ分けだ」
「あのなあ……」
 よくわからない主張に、九龍は呆れて嘆息した。
「てかお前、これちょっと匂いキツ過ぎないか? 今くらっと来たぞ」
「そうか? 俺にはちょうどいいが」
「いつもこんなの吸ってたら、そりゃ鼻も馬鹿になるだろ……って、うわ! だから吹きかけんじゃねえっつーの!」
 また軽く咳込んで、もがきながら顔をそむけた。なるほど、これじゃもれなくラベンダー臭が染みつくわけだよ、お前自身にも部屋にも持ち物にも。
「おーい八千穂ちゃん、大丈夫?」
 いい加減九龍も体勢が辛くなってきて、背中で呻いている八千穂に声をかけてみる。たった今己の状況がわかったらしい八千穂が、きゃあゴメン葉佩クン、と慌てながら、ようやく起き上がってくれた。
「いたた……今度は一緒に落ちちゃったね」
「怪我はない?」
「うん、葉佩クンがまた受け止めてくれたから……あれ?」
 腰をさすっていた八千穂は、九龍の下で身を起こした皆守に気づいたようだった。
「皆守クンもかばってくれたんだ。ゴメン、ありがとう」
「……別に、かばったわけじゃない」
 皆守はあさっての方向を見て、無表情を作った。
「八千穂一人助けられないような奴に、とっさに身体が動いただけだ」
 ……いや、それがかばうって言うんじゃないのか。
 起き上がって装備を整えつつ、九龍はその皮肉げな物言いに笑った。落ちたのは八千穂、九龍、皆守の順だったはずが、いつの間にか皆守が一番下になっていた。偶然かもしれないが、感謝しておこう。受け止めてくれた事実に変わりはない。
 それでも大したダメージはなさそうな様子で、皆守はアロマに火をつけ直している。うーん、やっぱり運動神経はいいみたいだ。要領がいいというか。
 なんで皆守クン帰宅部なのさ、面倒だから、勿体ないなァ、などと掛け合う二人の会話の聞きながら、九龍は目の前にあった階段を上がった。突き当たりの扉を開けると、また化人のいる部屋だ。今度は数が多い。あげく、二人が隠れる場所もない。
「皆守ッ、とりあえず八千穂ちゃんを……」
 彼なら大丈夫だろう、思って託そうとした瞬間、横から衝撃が来た。突然だった。すぐそこにいた化人が手を伸ばしてきたのだと、視界の端で認識した。
「このッ……」
 身を翻して、ナイフで切りつける。重い手ごたえがして、呻き声と共に一体消滅。
「葉佩クン!」
 八千穂の声に、今度はコウモリが目の前に迫ってきたことを知った。身構え直そうとするが、間に合わない。そう思った時。
「あ〜、眠い……」
 いかにもだるそうな呟きと共に、皆守が背後からぶつかってきた。重みに耐えられずよろめいた九龍の頭上を、コウモリの羽音が通過する。
「ちょ、皆守ッ?」
 九龍の背中に覆い被さるような体勢で、皆守は目を閉じている。え、何これ、まさかこんな時にノビタクン発動? 冗談!
「おい皆守! 危ないって!」
 無理やり剥がそうとすると、体重がかかってきてぐらりと前傾姿勢になった。間一髪ですぐそばを飛ぶ、刃に似た汚れた包帯。化人の攻撃だ。
 舌打ちをしてなんとか銃を構えるが、皆守が邪魔でポインタが定まらない。ラベンダーの香りと、静かな寝息と、首筋をくすぐる彼の癖毛。こ、こいつマジで寝に入ってやがる!
 集中できない九龍を守るようにして、八千穂が元気よく宣言した。
「いっくよー!」
 ボールを投げ、伸び上がってスマッシュを放つ。硬球は勢いよく化人に当たり、一発にして断末魔を上げさせた。その破壊力に九龍は一瞬唖然としたが、敵はまだ数体残っている。
「皆守、どけ!」
「あ?」
 振り返ると、寝ぼけ眼が見えた。なんだもう朝か、とでも言い出しそうな表情である。思わず腹部に肘鉄を食らわせて、拘束に似た重みから抜け出した。
「八千穂ちゃん、伏せてて!」
 わずか呻いた皆守を振り切り、狙いを定める。弾丸に限りがあるとはいえ、近接武器より手っ取り早い。一体ずつ確実にしとめて、やがて部屋は静かになった。……危ない危ない、油断は禁物。
「大丈夫、葉佩クン?」
「八千穂ちゃんこそ。ありがと、助かった」
 化人を全て倒したことを確認し、一息つく。心配そうな八千穂に無事を示して、九龍は軽く手を挙げてみせた。皆守は、というと壁にもたれてまたうとうとしている。
「お前なあ……」
「ふァ〜あ。……ん? 終わったか?」
 文句を言おうとした九龍に悪びれず、皆守はあくびを噛み殺した。ああ、やっぱりわからない男だ。怒る気も失せる。……無事だったからもう、いいけどさ。
 嘆息すると、硝煙にラベンダーの香りが混じった。皆守の匂いだと思ったが、それはいやに近すぎて、九龍はぶんぶんと首を振る。うわわ、移ってやんの。これ俺の匂いかよ。
「ねえ、鍵がかかってるよ」
 西の扉を開けようとしていた八千穂が言った。また仕掛けかなあと呟いているが、それらしき物は部屋の中に見当たらない。九龍は扉を調べて、大丈夫と笑ってみせた。
「これくらいの鍵なら、簡単に開けられるから」
 取り出した開錠工具でかちゃかちゃやっていると、やがて外れる音がした。
「……お前、泥棒にもなれそうだな」
「む、開錠は《宝探し屋》に必要不可欠なスキルだぞ」
 呆れる皆守に言い返して、九龍は扉を開けた。
 そこは、さっきの飛び石の部屋につながっていた。もっと遺跡の底深くまで落ちたかと思っていたが、意外にすぐ近くだったようだ。今度は踏み外さないよう慎重に跳んで渡り、途中で見つけた蛇の杖スイッチも倒しておく。またどこかで鍵の開く音がした。
「よっと……お、箱があるな」
 皆守の言葉に跳んでみると、中身は薬品だった。硝酸だと分析した《H.A.N.T》の結果に、九龍は少し苦笑する。だから劇物だっつーの。古代人って結構いい加減だなあ。
 飛び石を渡ってしまうと、隅に石碑が建てられていた。刻まれた神代文字は鮮明でわかりやすく、《H.A.N.T》を使わずともすぐに解読できた。
『伊邪那岐神と伊邪那美神は天浮橋を渡り、天津神より授かった天沼矛で、眼下に広がる混沌の海をかき混ぜた』
「……古事記、か?」
 読み上げた九龍は、思い当たって記憶を探った。イザナギ、イザナミのエピソードは知っている。その矛から落ちた滴が島となり、二人の国生みの拠点になったという序章だ。
「何か関係あるのかな」
「わざわざ石碑に刻んでるってことは、そうなんだろうねえ」
 八千穂の疑問に首を傾げて、九龍はそれを《H.A.N.T》に情報として残しておいた。とりあえずここを出たら、マジで図書室に勉強しに行こう。
 石碑を横目に進むと、扉が二つあった。東は施錠されているが、西の扉は開閉可能。おそらく、さっきの杖の仕掛けで開いたのだろう。まずは進める方から進もうと、その扉を開けた途端に。
『敵影を確認』
 《H.A.N.T》が言った。最初に降りてきた広間と同じような広い空間で、模様の入った柱と、巨像がいくつか立っている。死角となる場所があるなら、それを利用しない手はない。いたのは水槽の化人とコウモリで、八千穂の協力を得ながら九龍は確実に倒していった。敵影消滅。
「なんだよ、もう終わっちまったのか」
 アロマを吐いて、皆守が言う。いやお前、何もしてないだろうが。
「なんか大きな石像がいっぱいあるね〜」
 並んだ像を見渡して、八千穂が感心している。中央に石碑があり、九龍はそれを解読した。
『国生みより後に出でし神々、並び座して旅立つ者を見送った』
「……なるほど?」
 呟いて、坐像を見上げる。つまり、並んでいる像はその神々を表しているというわけだ。どうやらここは、古事記の記述に倣って作られているらしい。
 落ちていた睡院メモにも、そのようなことが書いてあった。石碑だけではなく、壁にも記紀神話に基づいた話が刻み込まれているようだ。もしかするとこの遺跡は、大和朝廷によって建てられたのかもしれない、と。
「全部同じ方向を向いてるみたいだな……いや、違うか?」
 南西端の坐像に触れて、皆守が言った。確かにその一体だけ、他の像と向きが逆になっている。《H.A.N.T》で調べると、底面に機械構造を確認。動かせるらしい。
「並び座して、ね。全部同じ方向に向けろってことか」
 二人に手伝ってもらい、坐像を動かす。思いのほか簡単に回転して、かちりと固定された。扉の開く音。
「えーと、つまり石碑は古事記の逸話を刻みつつ、仕掛けを解くヒントが書かれてる……ってことなのかな」
 次の扉に手をかけながら、九龍は誰に聞かせるともなく呟いた。間違いないだろうが、それにしても疑問は残る。何故、古事記を倣う必要があったのか。更に、メモが続いて残されている事実からして、江見睡院なる人物もここを通ったことになる。それには仕掛けの解除が必要だ。では過去に解除されたはずの仕掛けが、今また生きて作動しているのは何故か。
 ……あの化け物たちには、そんな知性なさそうなんだけどなあ。
 化人は墓守の本能に従い、侵入者を排除しようとしているだけに見えた。ゆえに九龍は彼らの行動パターンを読みきって、楽に倒せるようになっているのだ。突破されたギミックを再び仕掛ける、そんなことはできないだろうと思うのだが。
 うーん、もしかして遺跡自体に自動修復機能がついてたりしてな。おお、正に古代のテクノロジー。
 軽く肩をすくめて、九龍は扉を開いた。次の区画は直角になった通路だった。二体いた化人を退治すると、突き当たりに、蛇が向かい合った模様の大仰な扉があった。明らかに今までとは違う装飾だ。
「随分と物々しい扉だな」
 皆守の台詞を聞きながら、九龍は扉を調べてみる。くぼみの付いた錠前がかけられていて、何かをはめ込む仕掛けのようだ。
「この奥に何かいるのかな」
「……だろうね」
 少しだけ震えた八千穂の声に、九龍は神妙な面持ちで呟いた。ちりちりと空気を刺す、痛みに似たかすかな感覚。それは、危険信号のような。
 まず鍵を探すべく、少し通路を戻る。手前の二つの扉はどちらも開閉不可能だったが、西の扉は開けられそうだった。封印するように施された、黄金の鎖だ。
「そっか、これを解くためだったのか」
 ひとりごちて、九龍は手に入れていた塩酸と硝酸を取り出した。どうするの、と八千穂が興味津々に覗き込んでくる。
「王水を作るんだ」
「おうすい?」
「黄金を溶かせる薬品」
「えー、なんか勿体ないね」
 八千穂の発想に笑いながら、九龍は手早く調合を済ませた。確かにこの鎖を外して持ち帰るだけでも、充分『宝』に値する黄金の品だろう。そう簡単には外せないからこそ、鍵として代用されているようだが。
 濃塩酸と濃硝酸を三対一の体積比で混合。遺跡を作った古代人は、そんな化学反応も理解した上で、黄金の鎖をかけ薬品を保管したのだろうか。
「ちょっと下がってて」
 二人に離れてもらってから、遠慮なく王水をぶっ掛けた。煙と共に黄金は溶けて消滅して、扉が開くようになる。
『敵影を確認』
「うえ、またかよ」
 《H.A.N.T》音声にうんざりしたのもつかの間、任せて!と八千穂が跳び出した。容赦なくボールを打ち込んでゆく姿に、九龍も慌ててナイフを構える。いかん、プロが女子高生に遅れを取ってどうする。
「張り切ってるな、八千穂の奴」
 一人、皆守が壁にもたれて苦笑した。あ〜眠い、とお決まりの台詞で舟を漕いで、飛んできたコウモリをふらりと避ける。新しいアロマスティックに火をつけながら。
「皆守、お前も少しは何か手伝えよ!」
 八千穂を援護していた九龍は、思わず呆れて怒鳴ってしまった。皆守は肩をすくめて、ラベンダーのため息を吐いて、笑みを浮かべてただ一言。
「必要ないだろ?」
「やったー!」
 八千穂の歓声に振り返ると、彼女が最後の化人が消滅させたところだった。な、と皆守が目で言ってくる。……や、八千穂ちゃんってば、ひょっとして俺より強い?
 少々うなだれつつも、九龍は気を取り直した。きっと焦がれていた非日常に、自らの限界を超えて高揚しているのだろう。化人が『死ぬ』というより『消える』存在であることも、彼女に自信を持たせているのかもしれない。何にせよ、頼もしい限りである。
 奥にあった壷を開けると、貝を象ったレリーフが入っていた。さっきの大きな扉の、錠の形そのものだ。
 戻ってはめてみると、案の定ぴったりだった。そのままどういう仕掛けなのか、錠前は蒸発するように消えてしまう。これで、この扉も開閉可能だ。
「……さて」
 扉に手をかけて、九龍は二人を振り向いた。
「勘でしかないけど、ここだけ空気が違う。何かあったらすぐこの部屋から出て避難すること」
 わかった、と八千穂が言う。ああ、と皆守が頷く。なんだかくすぐったくなって、九龍は少しだけ微笑んだ。
 孤独な仕事だと思っていた。學園内で友人を作ることはできても、それは正体を隠した上辺だけのものだ。昼間は憧れの學園生活を満喫しながら、夜は現実に戻って独り《秘宝》を探し求めるのだと。
「……ありがとう、二人とも」
 気がつけば、呟いていた。扉を開ける大きな音に紛れ、誰に届くこともなかったけれど。




 くぐもった声がした。
 薄暗く広い部屋の中央に、うずくまる影が見えた。化人ではない。
「葉佩クン、人が……」
 八千穂の声に、影がゆらりと立ち上がる。九龍は反射的に銃を構えた。それは奇妙な装束を着て黒い覆面をした、細く背の高い少年だった。
「《墓》から出て行け……」
 低く、消え入りそうな声で彼が囁く。引き金に指をかけていた九龍は、その瞬間に愕然としてしまった。この声は、まさか。
「取手だ……」
 絶句した九龍を代弁するように、皆守が呻いた。え、と八千穂が驚きの声を上げる。
「取手クンッ、どうしてキミがこんなところに……。それに、その格好は?」
「この《墓》を侵す者を処分する―――それが、《生徒会執行委員》たる僕の役目……」
 まるで自ら言い聞かせるように、取手は淡々と告げた。どこを見ているのかわからない、覆面のせいかもしれない。
 《墓》を侵す者を処分する、《生徒会執行委員》。つまり墓地の管理人や化人たちとは別に、學園の生徒から選ばれた《墓守》ということだろうか。生徒会は、そんなことまでしているのか。
「執行委員って、まさか取手クンが?」
 その存在だけは知っていたらしく、八千穂が信じられないといった風に目を丸くしている。
「あたしたちは、キミを助けるために、この學園の地下に―――
「……僕を助けに?」
「そうだよッ。キミが苦しんでいるのは、この墓地が何か関係しているはずだ―――って、そう、ルイ先生が言ってたから」
「だから?」
「え……?」
 取手の冷めた口調には聞き覚えがあった。君たちでは僕を救うことはできないと、突き放した放課後の言葉。あの時と同じ、含まれた嘲りの色。
「君たちが、僕の魂を救ってくれるとでもいうのかい? この呪われた學園から、救い出してくれるとでも?」
 覆面の下の瞳は、まっすぐ九龍に向けられていた。見えなかったが、何故かそう確信できた。
「……俺は、そんな立派な人間じゃない」
 目をそらさずに、九龍は答える。
「救うとか救わないとか、そんな大それたことを言えるわけじゃない。けど目の前で苦しんでる奴がいたら、思わず手を差し伸べてしまう、それじゃ駄目なのか? 同じ學園の生徒として友人として―――そんな理由も浮かばないほどの、反射的な行動すら許されないことなのか?」
 静かに言葉を紡ぎながら、似たようなことを誰かに言ったな、と思った。ああ皆守だと思い出して、視線を向けると目が合った。彼も、じっと九龍を見つめていた。
 八千穂が落ちて九龍が落ちた、飛び石の区画。あの時の彼も、助けようとかそういう思考以前の行動だったに違いないのに。
 取手が笑ったような気がした。嘲笑じみて、何事かを呟いた。その語尾を奪うように、八千穂が一歩前に踏み出す。
「取手クン、今からでも遅くないよ。あたしたちと一緒にここを出て―――
「……もう手遅れだよ」
 遮った取手の微笑は、今度は自嘲のようだった。
「僕は、僕の大切な物を―――大切な宝を差し出して、それと引き換えに《呪われし力》を授かった。この、神の両手をね」
 言って、自らの手のひらを見つめる。うっとりと夢見るかのごとく。
「僕の《力》は、この両手から相手の精氣を奪い取ることができる。そう―――まるで、砂漠の砂が水を吸い取るように」
 九龍の脳裏に、今日現実となった例の怪談が蘇った。音楽室に倒れていた女子生徒。ミイラのように干からびていた両手。
 ―――お前か。お前だったのか、取手。
「音楽室の女子は、お前の仕業か?」
「そうだよ」
 皆守の確認を、取手はこともなげに肯定した。
「だって、彼女が悪いんだ。あんなに綺麗な指をしているから。姉さんが言ったんだ、あの子の指が欲しいって」
「取手クンッ!」
 まるで罪の意識が感じられない口調に、八千穂が泣きそうな声を上げる。
「ダメだよッ、そんな、人を傷つけるようなこと―――
「僕はこの《力》を授かった時に、心を解放された。今はとてもすがすがしい気分なんだ……」
 八千穂は言葉を失った。皆守は何も言わなかった。九龍はただ、拳を握り締めていた。
 大切な宝と引き換えに《力》を得る。それが、この遺跡の秘密なのだろうか。そもそも《力》というのはどこから来るのだろう、それが古代の叡智なのか? それとも、単なる呪いの延長にしかすぎないのか?
 疑問は広がり、後から後から湧いてくる。わからないことだらけだったが、一つだけ確かだと九龍は思った。―――今の取手には、何を言っても通じない。
 静寂に、彼の笑い声だけが響く。妙に反響するそれを振り払うように、八千穂が口を開いた。
「でも……でも、失くしたものはキミ自身の心だけじゃないはずだよね?」
 取手が訝しげに首を傾げる。うつむいていた八千穂は、意を決した風に顔を上げて。
「キミは、失う前には覚えていたはずだよ。お姉さんの温もりや、優しい微笑を。他にもあるでしょ? 失くしてしまった大切なものが……。キミは、それが自分にとってかけがえのない宝だってわかってる。だから、キミはそんなに―――そんなに、苦しんでいるんじゃないの?」
「何を言っているんだ?」
 心底不思議そうに、取手は言った。
「姉さんは、死んでいないよ。姉さんは、いつだって僕を見守ってくれている」
「取手クン……」
 何もない宙を見つめて微笑む取手に、八千穂はそれ以上何も言えずに黙り込んだ。彼の目には、幻の姉が見えているのかもしれない。己自身で作り出して、思い込んだ幻影が。
「もう戻れないんだよ。もう、戻れないんだ。風がどんな音を立ててそよいでいたのか、水がどんな音を立ててせせらいでいたのか―――今の僕には、もう何の旋律も聴こえない。全て、あの日に失ってしまった……」
 取手が差し出した大切な宝とは、姉に関する何かだろう。引き換えに《力》を得て、姉の死を忘れて、それで心が解放されたと思っている。そうすることで《防衛規制》を働かせて、精神的破綻を防いで、自分を支えようとしたのだ。そこにあるのは偽りの安穏でしかないと、取手もわかっているはずなのに。
 だから、苦しんでいる。だから、無意識に救いを求めている。その痛みを、九龍は知っている。
 忘れてしまえ、と。
 あの時、確かにそう思った。遺跡も宝も壁の向こうも全て、自分には関係のないものだと。そうすれば楽になれると。
「……そんなもの、解放されたとは言わない」
 わずかに声が震えたのは、怒りのせいだった。何に対してなのか、九龍にもわからなかった。取手はそれに応えることもなく、ただ、静かに言った。
「……無駄話は終わりだよ。ここが、君たちの墓になる」
 ゆっくりと両手をかざす。開いた手のひらに、目のような模様。
「安らかに眠るがいい―――
―――ッ!」
 唐突だった。ひどい不協和音が衝撃波と化して、九龍に襲い掛かった。明らかな敵意と、紛れもない殺意。避けられず、壁際まで吹っ飛ばされる。
 ……何だ、今のは。何も見えなかった。
 背中をしたたかに打ちつけて、九龍は息を詰めながら痛みに耐えた。ただ、音がしただけだ。それが取手の手のひらから広がって―――そう、精氣を奪い取ろうとした。
「葉佩!」
 皆守が助け起こしてくれる。なんだよお前優しいじゃん、と軽口を言う余裕もない。少し離れた場所で、八千穂がコウモリを相手に戦っているのが見えた。九龍は舌打ちをして、立ち上がって、マシンガンを構える。だから、プロが女子高生に遅れを取ってどうすんだっつーの!
「八千穂ちゃん、雑魚はよろしく!」
 返事を待たずに、九龍は取手に銃口を向けた。定めようとしたサイトポインタが揺れて、そこで初めて指の震えを自覚する。 人間を撃ったことが、ないわけではない。傷つけるのは簡単だし、殺られる前に殺れの精神に躊躇もない。―――ただし、それは相手が本当に殺すべき敵だった場合で。
 逡巡は一瞬だった。その空白に、取手がまた両手を伸ばしてきた。手のひらの模様が残像となって、衝撃波が渦を巻く。来る、と思ったその瞬間。
「あァ、眠い……」
「え」
 皆守の声だった。同時に寄りかかってくる重みと、既に慣れた花の香り。ちょっと待てまたかよ冗談だろ、そう怒鳴ろうとしてバランスを崩した九龍は、取手の攻撃がすぐ横を過ぎるのを感じた。壁に当たって、ひび割れを作るのを見た。そこでようやく、少々強引につかまれた肩の手に気づく。―――避けさせてくれた? まさか。
「皆守、お前……」
 今度はすぐ離れた、背後の友人を振り返る。皆守はまだ眠そうな顔でうとうとしていたが、偶然の結果でないことは明白だった。お前、だったら普通に助けてくれよ!
「……んだよ。俺は眠いだけだ」
 目が合うと、ぶっきらぼうにそう言われた。虚勢を張ったような言い方に、九龍は笑いを抑えきれなくなる。皆守はますます仏頂面で、消えたアロマに火をつけた。
 なんだ、やっぱり友達思いのいい奴なんじゃないか。その調子で、結局保健室仲間のことも放っておけなかったのだろう。―――なあ、取手。
 お前は独りじゃない。まだ、間に合う。
 皆守に礼を言って、九龍は取手に向き直った。正面から対峙して、少しだけ、目を閉じる。近づいてくる気配がする。深呼吸。銃を構える。
 殺すためではない。倒すためでもない。敵は取手ではなく、取手を苛む呪いだ。彼に憑いて《墓守》たらしめる、この遺跡の《カァ》だ。―――それを、祓うために。
 トリガーに手をかける。無神論者の九龍も、この時ばかりは神に祈りたくなった。
―――死ぬなよ、取手」
 心の中で十字を切って、引き金を引く。悲鳴がした。






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20130201up


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