木乃伊は暁に再生の夢を見る

2nd. Discovery #5










 痛い、と思った。
 衝撃が来て、思わず叫んでいた。必死で伸ばした手のひらから、相手の精氣を奪い取ろうとした。不快な旋律。自らが奏でる音。
「目を覚ませ、取手ッ!」
 力強い声が飛び込んでくる。その響きが耳に残る。誰だ。誰なんだ。誰であろうと、倒さなければならない。処分しなければならない。侵入者に罰を、墓荒らしに死を。
 取手は何も見ていなかった。自ら科した覆面は、内側に閉じこもるためのものだった。相手の姿を見なければ、ためらいなく手を下すことができる。迷いを捨てて、《墓守》としての任務をまっとうできる。
「取手!」
 また、鋭い痛みが来た。忘れていた感覚だと思いながら、耐えられず背中から倒れてしまった。馬乗りになった誰かが自分を押さえて、名前を呼んでいる。唐突に、剥ぎ取られる覆面。開けた視界。
「あ……」
 小さく、呻いた。埃まみれになった少年が、息を切らして取手を見下ろしていた。素直な黒髪と、黒曜石に似た瞳。そこに輝く、意思の強さ。
 確か、保健室で会った。見上げて、名前を教えてくれた。転校生の、葉佩九龍君。
 放課後の校庭で会った。墓地に行くと言っていた。彼と、彼の友達を処分したくはなかった。忠告したのに。突き放したのに。
「逃げるな、取手」
 目をそらすことなく、彼が言う。怒ったように。
「逃げたって何も変わらないだろ、ちゃんと見ろよ、向き合えよ、独りで背負って閉じこもろうとするんじゃねえ!」
「……それは」
 それは、君が強いから。だから、できることなんだ。
「俺は強くなんかない」
 僕は、弱いから。だから、できなかったんだ。
「お前は弱くなんかない!」
「だって、僕は」
 言いかけた台詞は、胸倉をつかまれることで途切れた。
「いいか、強いか弱いかなんて、所詮は自分次第なんだよ! 誰だって弱い部分はある、だからってそれが全てだと決めつけて諦めるな!」
 言葉は、まっすぐに取手を貫いてきた。そう言える彼は、やっぱり強いと思うのだ。自分は、そんな風に考えられないから。考えられなかったから。
 ―――ああ、僕にも君のような勇気があればよかったのに。
 額に、冷たく硬い感触が当たる。銃口だ。認識すると同時に、彼が言った。
「……過去形じゃない。まだ間に合うんだ。だからとりあえず、そこから」
 何故か、泣きそうな顔に見えた。
「そこから出てこい、取手」




 悲鳴が上がった。姉さん、という泣き声に聞こえた。
 倒れた身体に乗り上げて、至近距離で額を撃ち抜いた九龍は、がくりと震えた取手の上から振り落とされた。
「葉佩クン!」
 八千穂と皆守が駆け寄ってくる。大丈夫だと言いながらも、二人の手を借りた。壁にもたれて息をついて、九龍はしばし休息を貪る。大した怪我はないのだが、打ちつけた背中と肩がじくじく痛むのだ。
 やはり《墓守》である作用らしく、取手は銃弾にも傷つくことはなかった。それでも、手ごたえはあった。攻撃を繰り返しながら、着実に相手を追い詰めていると信じた。こちらも随分衝撃波を食らってしまったが、ミイラのように干からびることは避けられたようだ。
 ……ちくしょう、武器を持ってるとはいえ、こちとら普通の人間なんだぞ。ちょっとは手加減してくれよ!
「終わったの? 死んでないよね、取手クン」
「……ああ」
 取手のことも九龍のことも心配そうな八千穂を、安心させようと九龍が笑いかけた、その時だった。
「いや……待て」
 皆守が呟いた。厳しい視線の先は、倒れた取手だった。九龍もそれを追って、嫌な予感に眉をひそめた。
「ううッ……か、身体がッ……!」
 頭を抱えて呻く取手の身体から、煙に似た何かが噴き出している。彼自身から吐き出される、《黒い砂》のようなもの。
「取手クン?」
 再び、取手の悲鳴。断末魔に似た咆哮に、八千穂が怯えて後ずさる。
「なッ、何? あの黒い砂、壁に吸い込まれてゆくよ?」
 否、砂に見えるだけの何か特殊な生物なのかもしれない。彼らは意思を持つように壁を伝い、天井に集まって形を成そうとしていたからだ。
「……おそらく、これが取手に取り憑いて呪いをかけていた奴だ」
 次第に濃くなるその影を見上げながら、皆守が言った。まだ呼吸が整わない九龍は、震える手でマガジンを入れ替える。コッキングレバーを引く。連戦上等、まだ動ける。まだ戦える。
「気をつけろ。今度は、俺たちを狙ってくるぞッ!」
 ―――ここで倒れたら、意味がない!
 皆守の言葉を合図に、九龍は地を蹴った。どこからともなく群がってきた、蜘蛛型の化人に弾丸を撃ち込む。まずは二人の安全を確保するべく、背後にいた二匹を退治して。
『高周波のマイクロ波検出。強力なプラズマ発生を確認』
 《H.A.N.T》が警報を鳴らして、WARNINGの赤い文字を点滅させる。遺跡が揺れているような気がして、九龍は現れた化け物を見た。
 人が四足をついた格好の、大きな異形だった。上は瞑目した女性、下は怒りを露にした男性、二つの顔を持っている。天井に張り付くようにしてこちらを見ていたそれは、くるりと回転して着地した。
 これが取手に憑いていた、本来の《墓守》。
「八千穂ちゃん、下がって! 皆守、八千穂ちゃんを頼んだ!」
 怒鳴るように言って、群れていた蜘蛛たちにガス手榴弾を投げつける。熱風と衝撃に身体が煽られる。爆音と共に一掃したそれを確かめもせず、九龍はレバーをフルオートに切り替えた。サイトポインタはまっすぐ、その異形の頭部へ。
「安らかに、眠りやがれ!」
 先ほど取手に言われた台詞をぶつけて、九龍は弾丸をばら撒いた。




 光の差し込む音楽室、グランドピアノの前。そこが、彼女の場所だった。
「……かっちゃん」
 彼女が呼んでいる。旋律が聞こえる。穏やかで優しい、木漏れ日のような。
「かっちゃん。音楽というのは、人の心と似ているのよ。楽しさ。怒り。哀しみ。そして―――愛。時に緩やかに、時に激しく。音楽は、神様が人に授けた素晴らしいものなの」
「さゆり姉さん……」
 覚えている、その声を。覚えている、この曲を。
 彼女は微笑んでいた。全てを許して受け入れる、聖母のような笑顔だと思った。けれど、少年は知っていた。彼女は、彼女の音楽は。
「でも、もう姉さんはピアノを弾くことができないじゃないか! あんなに大好きだったピアノを……」
 もう、姉さんの綺麗な白い指は動かない。姉さんが奏でる音色を、耳にすることはできない。
「僕は嫌だよ、事故だっていっても許さない! 姉さんをこんな風にした同級生の奴らを、絶対に許さないッ!」
 うなだれる少年に、彼女はまた微笑みかける。
「かっちゃん、音楽と人の心は似ているの。人の想いがいつまでも失われることがないように、音楽もまた、大切な人の心に残っていく。辛いことや悲しいことがあっても、きっと、音楽が癒してくれる」
「……」
 歌うように紡がれる彼女の言葉を、少年は黙って聞いていた。だから、あなたに。あなたに対する、ありったけの想いを込めて。
「この曲を―――この楽譜を贈るわ。音楽がある限り、私はあなたの心に生き続ける。だから想い出して、この曲を。ずっと、忘れないで」
「姉さん……」
 優しい手が、少年の頬に触れた。もう動かないその指は、それでも温かくて。
 薄暗かった音楽室が、次第に光で満たされてゆく。血のように紅かった制服が、白く明るく浄化されてゆく。―――自身が生み出した偽りの彼女の幻は、もう見えない。
 忘れていた旋律と、忘れていた想い。全てが、心の淵から蘇ってくる。かっちゃん。思えばそう呼びかけてくる優しい響きすら、どこかに失くしてしまっていた。
「……で……」
 誰かが呼んでいる。太陽が見える。眩しくて強い、宝石のような。
「取手……!」
 目覚めなければ。ここから、出なければ。そう、彼が、助けてくれたから。
「……取手! おい、しっかりしろ!」
 無理やり意識を浮上させてくれるような、その声に応えて。
 取手は、ゆっくりと目を開けた。




 《黒い砂》だった異形の化け物を倒すと、それは数枚の楽譜となって残された。
『安全領域に入りました』
 銃をセイフティに戻し、九龍は《H.A.N.T》音声に息を吐く。―――これが、取手の差し出した《宝》というわけか。
「……お前のだろ?」
 拾った楽譜を差し出して、まだぼんやりしている取手に笑いかける。彼の焦点がようやく九龍に合わさり、何度か瞬きを繰り返した。その手に握り込ませるようにして楽譜を渡すと、力強く、頷いた。
 ずっと見守っていてくれたらしい、皆守と八千穂に無事を示す。彼らもようやく安堵したように、九龍と取手のそばに駆け寄ってきた。
「僕は、忘れていた……」
 静寂が降りた、薄暗いその部屋で。
 石の床を見つめながら、取手はぽつぽつと独り言のように話してくれた。
「さゆり姉さんが死んだことを忘れたくて、悲しみから逃げたくて。自分の宝物を差し出して、引き換えに《呪われし力》を得た。姉さんが僕に託した、大切なもの―――失くしていた物が何だったのかすら、忘れていたんだ。……僕は、蜃気楼のような幻を見ていたのかもしれない」
 呟くと、取手は気丈に微笑んだ。放課後のあの思い詰めたような陰は微塵もなく、晴れやかな笑顔で。
「君が、僕の宝物を取り戻してくれた。君は、何者なんだ?」
「何者、って……」
 じっと見つめてくる視線に、九龍は少しためらった。何か期待されてるような気がしたが、単なる《宝探し屋》だと正直に答えておく。ご、ごめんね、結局しがない墓荒らしで。「お前を助けに来た正義の味方だ!」とか何とか、嘘でも言ってあげられなくて。
「それが、君の正体かい?」
 取手は驚いた様子もなく、納得したように言った。
「そうか……それで君は天香學園に転校してきたんだね。この地下に眠る遺跡に隠された、《秘宝》を見つけ出すために……」
 ばらしていいのかよ、と言いたげに皆守が見ていたが、九龍は今更、と笑ってみせた。大体マシンガンぶっ放したり化け物と戦ったりして、それで普通の高校生だなんて、既にごまかしようがないし。
「僕にはまだ、君の探している物が何なのかはわからない。でも、僕の《宝物》を―――あの日、もう二度と取り戻せないと思っていた大切な物を、君は探し出してくれた。だから」
「え?」
「だから今度は僕が、君の力になるよ」
 取手は笑顔のまま、九龍に手を伸ばしている。え、えーと、これはもしかしてアレですかね。生徒手帳を渡せと。
 思わず八千穂を見ると、彼女は笑って頷いた。皆守はアロマを片手に、遠慮するなとため息を吐く。
「君と僕の友情の証だ」
 囁いて、取手はそこにプリクラを貼ってくれた。
 天香學園ではこれが友人としての通過儀礼なのかもしれないと、九龍は冗談のように思っていた。もちろん、そんなことはないだろう。けれどそこに並んだ三人の写真と名前は、なんだか特別なものに見えてくるから不思議だ。
「ね、みんなもう友達だよね」
 八千穂が握手を求めるように手を差し出す。取手がそれを握り、九龍はそこに手を乗せて、半ば無理やり皆守の手も重ねてやった。
 墓地で培われた友情、ってとこか。何もかも予定外だったけど。
「ありがとう」
 ―――《秘宝》は、何も古代文明が遺した物だけではない。
 嬉しそうに楽譜を抱きしめる取手を見て、九龍はそんなことを思っていた。




 施錠されていた入口をこっそり開けて、九龍たちは寮に戻った。また明日ねと手を振る八千穂、それじゃあと軽く頭を下げる取手、まさかこんな時間まで連れ回されるとはな、と文句たらたらの皆守と別れて、九龍は自室に帰る。
「疲れた……」
 一人になって緊張が解けたのか、どっと疲労感が襲ってきた。ゴーグルも銃もそのままでベッドに倒れ込んで、しばらく身体を休ませる。ああ、でもまだ寝られない。銃の手入れをしておかなければ。
 とりあえず運が良かっただけかもしれないが、バディたちも無事だし、取手を救うこともできた。まだ自分の求める《秘宝》は手に入れてないけれど、そもそも《秘宝》が何なのかすらわからないけれど、それでも今日は結果として上出来だったのではないかと思う。
 明日からまた、徹底的に遺跡を調べてみよう。
 決意をして、起き上がる。装備を外すと、あまりの埃臭さにようやく気がついた。制服はもう一着あるのでいいとして、問題は自分自身だ。消灯時間過ぎてるけど、風呂ってまだ使えるのかな。
 埃と、泥と、血と硝煙。《宝探し屋》特有の匂いは嫌いではない。けれどそれらは『日常』を遠ざけてしまう気がして、せめて學園や寮にいる時くらいは、手っ取り早く落としてしまいたかったのだ。
 着替えのジャージを手に、薄暗い廊下に出る。そういえばラベンダーの香りが移ってしまっていたが、とっくに消えているようだった。それともあいつと同じように慣れてしまって、俺の鼻も馬鹿になったのかも。
 なんとなくそう思った時、噂をすれば影とでもいうのか、向こうから皆守が歩いてくるのが見えた。さっぱりした顔と、首にかけられたタオル。心持ち濡れた癖毛を、緩やかなボディパーマのように揺らして。
「よう、葉佩。今から風呂か? まだ湯も使えるみたいだから、早く行ってこいよ」
「なんだ、入ってきたのかお前」
 近づくと、石鹸とシャンプーの香りがした。さすがにラベンダーも落ちるのかと思いきや、彼の唇にくわえられたままのアロマパイプに目がいった。……お前、風呂でもそれ吸ってんのかよ。
「皆守のことだから、眠いとかダルいとかめんどくせぇとか言って、てっきりそのまま寝たかと思ってた」
 揶揄ではなく素直な驚きで言うと、皆守は心外だと言いたげに眉根を寄せた。
「当たり前だ、あんな埃だらけで寝られるわけないだろう。……ったく、いつもならとっくに熟睡してる時間だぞ。どこかのイカれた格好した野郎のせいで……」
 おい待て、まだイカれた格好言うか。
 ぶつぶつと責められて、九龍は反射的に言い返そうとした。が、言葉と態度が裏腹の、本当は友達思いの優しい男だということは、既にわかってしまっているのだ。こっそり笑うと、訝しげな顔をされた。
「とにかく、早く行ってこい。暖かくして寝ろよ」
「あ、皆守」
 じゃあなと部屋に入る背中に、九龍は思わず声をかける。扉が閉まる寸前、今度は完全な揶揄を含めて。
「今日はありがとな、愛してるぞ!」
 がしゃん、とドアの向こうで何かにつまづく音がした。




 ―――その日の深夜、天香學園の一室で。
 ひっそりと行われた、会合があった。
「報告いたします。本日、《山》に入り込んだ者が……」
 物静かな男子生徒が切り出して、部屋に沈黙が降りる。
「3年C組の八千穂明日香。同C組の皆守甲太郎。そして同じくC組、昨日転入してきた転校生―――葉佩九龍。以上、三名です」
 読み上げられた名前に、威圧的な男の声が笑った。
「転校生……もう《山》に入り込むとはな」
「どうやら昨夜何者かによって、《岩戸》が開かれていたために入り込んだようです」
「なるほど……ただの転校生ではないということか」
 思案するような男の台詞に、妖艶な女生徒の笑い声が重なる。
「文字通り、括弧付きの《転校生》ってわけね。おもしろそうじゃない」
「念のため、確保しますか?」
 女生徒の言葉など耳に入らないかのように、男子生徒は淡々と告げる。男はまた少し考えるように沈黙して。
「……いや、そのままにしておけ。表立って動けば、かえって騒ぎが大きくなりかねん。それに、その《転校生》の力量もまだわからぬ……」
 わかりました、と男子生徒は答えた。場にそぐわない明るさで、女生徒が言う。
「今度の《転校生》はどこまで辿り着けるかしらね? 前の《転校生》は三ヶ月しかもたなかったけど」
「……《墓》を侵す者は、何者であろうと排除せよ」
 笑みの混じる女生徒の声を聞き流して、男が告げた。
「それが、この學園の法だ。その《転校生》の監視を続けろ……《生徒会》の名の下に」
 薄暗い部屋に、彼の言葉が響き渡る。それは、絶対の力を持っていた。




 初探索から、二日後。
 昨日は一人で遺跡に潜ってみたのだが、取手のいた区画以外はやはり、どうしても扉が開かないようだった。結局、大した収穫のないまま戻ってしまった九龍である。
 しかし、どうにも色々謎だよな。
 四時限目の音楽の時間、ぼんやりと教師の話を聞きながら、九龍はシャーペンをくるくる回して頭の中を整理した。
 《生徒会》は、《執行委員》と呼ばれる生徒に自らの宝を差し出させ、代わりに《呪われし力》を与えて《墓守》を勤めさせている。
 《呪われし力》とは何か。そうまでして守るべき、あの遺跡は何なのか。あれから取手とは言葉を交わす機会がなかったのだが、彼もあまり詳しくは知らないようだった。
 それでも學園で見かけた彼は、文字通り憑き物が落ちた、晴れ晴れとした表情をしていた。次は探索に誘ってみようか。知っている範囲で、色々教えてもらえるかもしれない。
「もう『一番目のピアノ』が怪談として語り継がれることはないんだよね」
 授業が始まる前、八千穂がグランドピアノを見つめながら言っていた。葉佩クンのおかげだよねと続ける笑顔に、九龍は首を振って。
「いや、八千穂ちゃんのおかげでもあるよ。あと皆守と」
 それから、取手自身もね。
 つけ加えて、微笑んでみせる。取手の問題は取手自身でしか解決できないと、皆守は言っていた。九龍もそれを否定はしない。どんなに周りが協力しても、最終的に必要なのは自身の力、それを乗り越えようとする己の意志だと思う。
「今日はピアノを使った授業をしましょう。……あら? 皆守くんは?」
 音楽教師が教室を見渡して、出席簿と見比べた。あれ、三時限目はいたはずだけど。九龍もつられて首を傾げる。
「さっき具合が悪くなったって出て行きましたけど〜」
 どうせサボりだろうと囁くクラスメートたちに、八千穂が立ち上がって言った。保健室か、本当に体調不良なのか怪しいもんだ。
「そう……残念ね、今日がピアノの授業の初日なのに。でも具合が悪いのなら仕方ないわ」
 教師は少し考え込むように呟いて、では始めましょうとドアを指した。
「実は今日の授業のために、特別にピアノを教えてくれる講師の人を呼んであります」
 促されて音楽室に入ってきたのは、青白い肌をした背の高い男子生徒―――取手だった。驚く九龍と八千穂に、気弱そうな微笑を向けてくる。
「葉佩君……君に、僕の演奏を聞いてほしくて」
「俺に?」
 思わず、九龍は自分を指差した。教室中の視線が集まる。
「C組の授業でピアノを教えさせてもらえるように、音楽の先生にお願いしたんだ。僕は君に姉さんの楽譜を取り戻してもらってから、毎日ピアノを弾くようになった。弾きながら……いつも、君のことを思い出す」
 え、ちょっと待って、なんか、あの、照れるんですけど。てか、みんなが変な目で見てる気がするんですけど!
 思わずうろたえてしまう九龍だったが、取手はそれに気づかないまま。
「僕は、うまくピアノを弾けているだろうか? 僕の音楽は、天国の姉さんに届いているだろうか? 君は……ピアノを弾いている僕の姿を見て、どう思うだろうか?」
 純粋な想いが、純粋な言葉から伝わってくる。何も言えなくなって、九龍はただそれに耳を傾けた。
「だから、君に確かめてほしいんだ。僕にとってあの《宝物》が、どれほど価値のあるものだったのかを。―――だから、聴いてほしい。この曲を」
 八千穂が拍手をして、生徒たちがそれに続いた。静かに、取手はピアノを弾き始める。光の差し込む、明るい音楽室で。
 木漏れ日に似た、優しいその旋律を。




 穏やかなピアノの音が、風に乗って流れてきていた。
 誰もいない墓地。夜とは違う淋しさの中、その曲を遠く耳にしている生徒が一人。
「……」
 何も言わず、墓名のない墓石を見つめる。誰からも忘れられた目の前の墓に、ラベンダーの花束を無造作に供えて。
「……」
 ただ、無言のまま。
 皆守は、そこに佇んでいた。






→NEXT 3rd. Discovery#1



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