木乃伊は暁に再生の夢を見る

3rd. Discovery #5










「こんばんは、ようこそ葉佩クン」
 相変わらず可愛らしい声で、椎名が迎えた。無機質な遺跡の一角、ちょこんとお辞儀するゴシックロリータ少女。ものすごい違和感だな、と九龍は苦笑する。
「やっぱり来たんですのね。それはつまりィ、『死』を恐れてなどいないってことですよね?」
「……なんでそうなるかなあ」
 苦笑のまま呟くと、椎名は心底不思議そうに首を傾げた。
「おかしな人。ではどうして、こんなところまで来たんですの? さあ、望む罰をさしあげますわ。あなたには、ここで死んでもらいますの」
「……待って、椎名ちゃん」
 にっこり笑った彼女に、九龍もわざとにっこり笑ってやった。
「死ぬことが大したことないって言うなら、俺を殺すこともできないんじゃないのか? 死んだって、いくらでも代わりがきくんだろ」
 わずか、椎名が目を見開いた。人差し指を唇に当てて、考え込むように。
「そう、ですわね。あなたが死んだって、新しい《転校生》がまた来るだけですもの」
「うん、まあ、それは新しい別の《転校生》であって、俺じゃないんだけどな」
「……」
「矛盾に気づいたか、椎名ちゃん?」
 彼女は何も答えなかったが、笑顔が強張ったようにも見えた。対する九龍は、悠然と笑みを浮かべたまま。
「取手」
 緊張して事の成り行きを見守っていた、背後の友人に告げる。
「雑魚は任せていいか」
「……うん」
 どこからともなく群れてきた蜘蛛型の化人を睨んで、取手は力強く頷いた。
「皆守は取手のそばにいろ、離れるんじゃないぞ!」
 何か言いかけた皆守の台詞を遮るように、九龍は近くの蜘蛛に手榴弾を投げつけた。爆発音を合図にして、椎名に向かって地を蹴る。刹那。
「ニコニコターイム♪」
 場にそぐわない楽しそうな台詞に、え、と思う暇もなかった。舞い上がる爆風と土埃の中、目の前に投げられたプレゼントボックス。
「ちッ……」
 とっさに腕で払いのけるが、炎を押し付けられたような痛みが来た。耐えられず後ろに吹っ飛ばされる。後転して起き上がり、銃を構え直す。
「葉佩!」
「離れてろ、皆守!」
 またかばおうとしてくれていたのか、皆守がすぐ背後にいた。それを振り払うように飛び出して、九龍は椎名を射程距離に入れた。今のところ、彼女の狙いは自分一人だ。そばにいると、爆風に巻き込んでしまう。
「リカと一緒に遊びましょ」
 るんるん、と歌うように椎名が近づいてくる。反射的にポインタを合わせたのは眉間だったが、さすがにためらって銃口が揺れた。……駄目だクソ、女の子の顔なんて撃てるか!
 唇を噛み締めて、足元に狙いを変える。大丈夫、彼女を殺してしまうことはない。半ば己に言い聞かせながら引き金を引くと、絹を裂くような悲鳴がした。
「あなたも、リカをいじめるの?」
「いじ……ッ、いじめてるわけじゃねえ!」
 思わず怯んで、耳を塞ぎたくなる。そ、それ反則、俺が悪者みたいじゃないか!
「椎名ちゃん、本当は知ってんだろ! 『死』ぬって、どういうことなのか!」
 悲鳴と銃声が重なって、九龍は怒鳴るように言った。少し離れた場所で聞こえる、取手の放つ音波。蜘蛛の断末魔。
「伊邪那岐は、確かに黄泉の国へ死んだ伊邪那美を迎えにいった! けれど、連れて帰ることはできなかったんだ!」
「嘘、嘘ですの、そんな……!」
「いいか、神様さえも死んだ奴を生き返らせることはできなかったんだぞ!」
 言いながら銃弾をばら撒いて、彼女を支配する《カァ》を確実に削いでゆく。投げられた爆弾の直撃を避けて、転がって、そこにまた爆弾が飛んでくる。熱が服を焼く。肌を焦がす。
「だから、こちとら、普通の人間だっつーの……!」
 火傷の痛みに喉が鳴って、九龍は呻くように呟いた。弾丸にも傷つくことのない少女は、全くの無傷でそこにいるように見える。うう、これって一見ハンデありすぎじゃね?
 けれど倒れることも負けることも、九龍は決して考えはしなかった。死者が眠る遺跡の念は、『死』を感じる意識を引きずり込む。捕らえたら最後、果てしなく闇へと加速させる。弱気になれば、そこで終わりだ。だから、己を強く保つことが必要になる。時にはそれが虚勢で、自意識過剰でしかなかったとしても。
 もがいて、足掻いて、生きることに執着して。
 ―――最期まで笑え、九龍。
「言われなくても!」
 蘇った言葉を振り払い、痺れる右手を叱咤して、九龍は空になったマガジンを入れ替えた。ああ笑ってやるさ、諦めてたまるか!
 埃と煙の中、爆風で近づくこともできない二人が見える。葉佩、と皆守の唇が動いた。視線が交錯した。それはまるで、スローモーションのように。
「……俺は死なないよ、皆守」
 にっこり笑って、レバーを引いて。台詞は、彼に届かなかったかもしれないけれど。
 狙いを定めて、引き金を引く。取手の賛辞と、白岐の嘆息を思い出す。葉佩君は、本当に強いんだね。葉佩さん、あなたは強い人ね。
 強い、ああそうだ。それは、俺自身がそうあろうとしてるからだ!
 一際、大きな悲鳴が上がった。懇願するような囁きが、泣き声に入り混じっていた。




 ―――知っていた。
 黄泉の国へ降りた伊邪那岐は、そこで変わり果てた伊邪那美の姿を見てしまった。蛆がたかり、膿の流れる腐った身体。伊邪那岐は妻を見捨て、恐怖に逃げ出して、黄泉へ続く坂を封印してしまった。
 死んでしまえば、もう戻れない。地上に帰ることはできない。ベロックもお母様も、伊邪那美のように黄泉の国で腐ってしまったのだろうか。迎えに行ったお父様は、それを見て逃げ出してしまったのだろうか。嘘だ。そんなのは、嘘。
 伊邪那美が言う。あなたの国の人間を、一日に千人殺してあげましょう。
 伊邪那岐が答える。ならば私は、一日に千五百の子供を誕生させてやろう。
 神様にとって人間の命というのは、それほどに軽いものなのだ。人の生死を司る、そんな力を持つ神様すら、死んだ者を連れて帰ることはできなかったのだ。
 死は、たとえ神であろうと受け入れざるを得ない現実。でも、神様。神様は、千人殺して千五百人の命を生むことができるはず。
 だったら、ベロックを返して。お母様を返して。いつもそばにいてくれたはずの、お父様を返して。―――リカを、独りにしないで。
「……リカ……」
 目を開けると、答えるように名前を呼ぶ声が聞こえた。涙でよく見えない。誰だろう、お父様だろうか。お父様。帰ってきてくれたの? それとも、リカは死んだの? 今度は、リカを迎えに来てくれたの?
「ちゃん……リカちゃん!」
 強く叱咤されて、ようやく意識がはっきりした。倒れた自分を覗き込んでいるのは、黒い髪と黒い瞳の、転校生の男の子。
「葉佩、クン……」
 弱々しい微笑で九龍を捕らえて、椎名はかすかに呻いた。
「ごめんなさい、ですの。リカは……」
 小さな手で、彼の頬に触れる。血が流れている。蛋白質の焦げる匂いがする。殺そうとしていた。殺さなければならなかった。そうして半永久的にこの墓地で眠らせることが、《執行委員》であり《墓守》である掟だった。
 『死』なんて大したことはないし、死んでも新しい《転校生》が来るだけのこと。また殺して眠らせばいいだけのこと。そう思っていた、けれど。
「本当は、わかっていたのに……リカは、知らないふりをしていただけ……ですのね」
 死んだ人は、もう戻ってこない。その代わりなどいない。
 ―――夫に見捨てられた、伊邪那美のように。
 自分も、黄泉の国で腐ってゆくのだろう。誰も迎えになど来ないし、来ても戻れるわけがない。リカは、死ぬのだ。死んで、二度と地上に帰ってこれないのだ。
「……まだ、大丈夫だよリカちゃん」
 ぼろぼろになった姿で、九龍が気丈に笑いかけてくれる。王子様みたいだ、と思う。子供の頃憧れた、どんなに傷ついても必ず助けに来てくれるような。
「大丈夫」
 繰り返された言葉の強さと、握られた手の温かさを。
 蘇った痛覚と共に感じて、椎名は悲鳴を上げた。




「葉佩!」
「葉佩君!」
 がくりと身体が傾いて、九龍は自分が膝をついたことを知った。皆守と取手の声に、失いかけた意識を奮い立たせる。
「だ、だいじょーぶ……」
 椎名に言った台詞と同じだったが、力が入らず語尾が震える。右腕が焼けるように痛い。左手が動かない。汚れた頬を学ランの肩で拭うと、べったりと血がついた。
「お前、そんな身体で戦う気かよ!」
 立とうとして、皆守に怒鳴られた。戦う。ああ、そうだまだ終わりじゃない。《黒い砂》が椎名の身体から噴き出している。固まって、生物のように形を作ろうとしている。更に群がってくる、蠍型の化人たち。
「……あいつを倒さないと、リカちゃんは救われない……」
 《黒い砂》は壷に似た形を成し、大型の化人へ姿を変えた。《H.A.N.T》が警報を鳴らしてくる。高周波のマイクロ波検出、強力なプラズマ発生を確認。
「だからって、お前」
 本気で心配してくれているらしい皆守の、真剣な表情が目に入る。珍しいと思ったのは、それが今にも泣き出しそうに見えたからかもしれない。
「葉佩君、ちょっとじっとしてて」
 取手が両手をこちらに向けて、静かに目を閉じた。触れたところから温かいものが流れ込んでくる気がして、九龍は驚いて彼を見上げる。
「《呪われし力》……今は、君の役に立てることが嬉しいよ」
「……ああ、そっか」
 彼は精氣を奪うだけではなく、与える力も持っていたのだった。納得した九龍は、先ほどよりもみなぎりつつある気力と体力を感じた。怪我が完治したわけではないのだが。
「もっと僕に力があれば、傷も治せるんだろうけど……」
「や、バッチリ回復したって! ありがと、取手」
 少し悔しそうな取手に、九龍は微笑んでみせた。ベストから最後の手榴弾を取り出して、歯でピンを抜く。
「んじゃ、戦闘再開と行きますか。お前らは下がって……」
「そういうわけにもいくか」
 台詞を遮る低い声と共に、無理やり顔を向けさせられた。真正面から覗き込んでくる、皆守の瞳。
「……協力させろ。バディなんだろ」
 いつも冷めた光を浮かべているその鳶色に、しっかりと九龍を映し入れて、皆守は憮然として呟いた。
「皆守……」
 思わず、笑ってしまいそうになる。時々気が向いたように避けさせてくれるとはいえ、基本は眠いダルいで何もしなかったくせに。
「ちゃんとピンチは救ってくれるんだな、さっすが王子様」
「……誰が王子だ」
「あれ、となると俺がお姫様?」
「誰が姫だ!」
「じゃあ倒れたらキスで目覚めさせてくれ、よろしく!」
 揶揄のまま怒鳴るように言って、九龍は手榴弾を投げた。何か反論したであろう皆守の台詞は、爆音と壷型化人の悲鳴にかき消される。
「葉佩君、後ろは僕たちに任せて」
「了解!」
 取手に返事をしながら、怯んだ化人の眉間に銃弾を撃ち込んだ。背後から音波が飛んで、蠍を苦しめているのがわかる。揺れる尾の攻撃を、皆守が何も言わず肩をつかんで避けさせてくれる。
「……いいのか皆守、眠いとか言い訳しなくても!」
 銃声の中、九龍は振り向かずに笑ってみせた。それだけ余裕がないってことなのか。だったらいつもの、あのツッコミ蹴りを披露してくれた方が助かるんだけどな。
 そんなことを思ってこっそりうかがうと、皆守の仏頂面が目に入った。そのまま振り上げられた長い足が、九龍の腰にヒットする。……ぐはッ違う、俺じゃなくて化人を蹴ってくれ!
 そんなに強くはなかったが、バランスを崩してよろめいた。と、蠍の鋭い鋏がすぐ横を空振りするのが見える。い、今のも避けさせてくれたのかよ、なんか素直に感謝する気になれないんだけど!
 二人に背を預けて戦いながら、九龍はふと思い出していた。遺跡の化け物と対峙した時、いつも後ろに感じていた大きな背中。互いに寄せた絶対の信頼。ずっと傍にいると思われたその存在は、既に失われて久しいけれど。
 ―――俺はまだ笑えるよ、父さん。
 誰にも届くことのないよう、呼びかけを舌の上で転がしてみる。記憶は色褪せても、一生忘れることはなく。傷は癒えても、一生消えることはなく。
 少しだけ疼いた、その痕のために。
 強くありたいと、九龍は願う。




 温かく懐かしい音色に、椎名は意識を取り戻した。
 夢の中で、父が言っていた。すまない、リカ。私はただ、お前を悲しませたくないだけだった。お前の悲しい顔を見たくなかった。いや、その悲しみからお前を救うことができない、己の無力さが恐かったんだ。
「それじゃ、お母様はもう戻ってはこられないの……?」
 事実を告げられた自分は、どうしようもなくて泣いていた。悲しくて、淋しくて、このまま涙で溺れてしまいそうなほど。
「ああ……お空の向こうに行ってしまったお母様も、ベロックも、連れて帰ることは誰にもできないんだよ」
「そんな……」
 愕然と呟いた自分に、父は優しく微笑んだ。でも、大丈夫。教会を見上げていた目は、悲しみを湛えながらも励ますように。
「大丈夫、お母様はいつでも私たちのすぐそばにいるよ。まだお前が幼い頃、三人で幾度も一緒にこの音色を聴いただろう?」
 父の手には、古びたオルゴールが乗せられていた。目を閉じてその音を聴いていると、母の姿が見えるような気がした。優しくて温かい、その笑顔が。その声が。
「リカ―――恐れないで、愛しい子。現実という名の炎を、勇気を出してくぐるの。そこには、あなたが望むものを手にすることのできる、素晴らしい世界が広がっている―――
 決して目をそむけずに、飛び込んでゆくのよ。
「……お母様……」
 呟くと、涙が零れた。ふわふわと空を漂っているような浮遊感に、椎名は瞬きをして現実を認識した。埃と泥と血で汚れてはいるけれど、凛々しい横顔とまっすぐ前を見据える綺麗な瞳。自分を抱きかかえる、力強い腕。
「大丈夫か、リカちゃん」
 視線を捉えて、彼が笑った。気がつくと、墓地に戻ってきていた。自らも怪我をしているのに、ここまで抱えてきてくれたらしい九龍を見て、椎名はまた泣きそうになった。
「葉佩クン……」
 落ちないよう、両手に握るようにして持たされているオルゴール。澄んだ音が、夜の静けさを優しく弾く。リカの、宝物。彼が取り戻してくれたのだ。
「死んだ人は、二度と戻らない……どうして、忘れてしまっていたのかしら」
 思い出した今は、それがとてつもなく不思議なことに思えた。お母様はいつでもリカの心の中にいる、わかっていたはずなのに。それなのに、どうしても淋しくて。
「気がついたときには、その淋しさごと、大切なものを失っていたんですの。《黒い砂》のようなものが、リカの弱い心ごと、大切なものを奪っていったんですの……」
 うつむいて、涙を隠す。きっと、月明かりで知られてしまっているかもしれないけれど。
「葉佩クン」
 勇気を出して顔を上げると、まっすぐな目とぶつかった。次の言葉を待つ、吸い込まれそうに深い闇の色。
「……あなたは……リカを、ひとりぼっちにしない?」
 微笑もうとして、失敗した。泣き笑いのような顔になった。対して綻ぶ九龍の笑顔は、咲き誇る大輪の向日葵を連想させた。むしろ、彼自身が太陽のようだと思った。
「リカちゃんがそう望むなら、俺はここにいるよ。もちろん、絶対だって無責任な約束はできないけどさ。……独りが淋しいって思うのは、当然のことだもんな」
 軽く頭を撫でる、温かい手。欲しかったのは約束ではなく、自分の気持ちをわかってくれる誰かだったのかもしれない。
 ―――今は、それだけでも充分だ。
「葉佩クンの傍は、なんだかとっても居心地が良さそうですの。なんだか、安心できそうですの……」
「そのとおりだよ、椎名さん」
 呟くと、取手が微笑みながら同意してくれた。その即行の台詞に、九龍がうろたえるのがわかる。何照れてんだ、と皆守がその頭を小突く。つられて笑って、椎名は祈るように両手を胸の前で組んだ。解放された取手が、《転校生》に協力する理由。今なら、それがわかるような気がする。
「葉佩クン、リカの呪縛を解き放ってくれてありがとう。リカも、もっと強くなりたい。悲しみに負けないように、大切なものをちゃんとしまって、今度こそ―――
 心からの笑顔で、椎名は手を差し出した。自分を救ってくれた目の前の神様に、精一杯の感謝と懺悔を込めて。
「今度こそ、忘れたりしませんわ」




 寮に戻った九龍は、そのままベッドに沈むようにして熟睡してしまった。装備も解かず、風呂にも入らず、銃の手入れもせず。気がつけば夜は明けていて、慌てて準備を整えたものの、案の定たっぷりと遅刻してしまうことになる。あああ、もうとっくに四時限目始まってる時間だって!
 更に、一階昇降口で瑞麗に見つかった。取手の力で目立たなくなったとはいえ、応急処置で済ませていた怪我を指摘された。半ば強引に保健室に連れられ、呆れながらもしっかりと手当てを施されてしまう。頬に絆創膏、腕に包帯。
「これは火傷か? まったく、君は常に生傷が絶えないな。あえて理由は聞かないが、何か悩みがあるなら相談に乗るぞ?」
「いやルイ先生も大げさだなあ、ま、まあ色々あるんですよほら、《転校生》だから!」
「理由になっていないな」
「うッ!」
 言葉に詰まる九龍を楽しそうに眺めながら、瑞麗はそれ以上追求しなかった。なんだか正体がバレつつあるような気がするけど、ルイ先生だし……ま、いっか。
 そんなこんなで、時は既に昼休み。
 午前からサボっているらしい皆守を探して、九龍は売店で買ったカレーパンを片手に屋上へ向かっていた。奢れと言われたからでもあったが、純粋にお礼のつもりだった。本当に、昨夜はバディがいなければ危なかったかもしれない。その大切さを噛み締めて、九龍は屋上へ続く扉を開けた。今日もいい天気だ。
 給水塔の陰を覗くと、思ったとおり皆守はそこにいた。足音を忍ばせたつもりはなかったが、どうやら気づいていないらしい。ぼんやりとアロマを燻らせながら、晴れた青空を見上げている。
 風に流れる雲を追う、気だるそうなその瞳。それは遥か遠くを眺めているようで―――何も、見ていないようで。
「皆守」
 声をかけると、彼は緩慢にこちらを振り向いた。気づいて九龍を映した目は、相変わらず眠そうな半眼だったけれど。
「よォ。お前、今来たのか? 俺のこと言えないな」
 皮肉げな笑みを浮かべて、まあ座れよと隣を指してくれる。おとなしくそこに腰を下ろして、九龍はぽつりと呟いた。
「……皆守ってさ、時々遠い目するよな」
「は?」
 アロマパイプを外して、皆守は訝しげに眉を寄せた。
「なんつーか、こう……」
「なんだよ」
「いや、うまく言えないんだけど」
 本当に何も見ていない、ような気がするのだ。今もこちらに目を向けていながら、九龍を透かして全然別の何かを追っているかのごとく。どう言うべきか悩んで口ごもった九龍は、唐突に強くなったラベンダーの香りを意識した。
 視界の端に伸ばされる、パイプを持った皆守の左手。思いがけず近づいたそれが、そっと九龍の頬に触れた。
「な、何?」
 驚いて、反射的に身を引いた。気にせず追った皆守は、確かめるように指で絆創膏をなぞる。
「……怪我」
「え?」
「ひどいのか?」
「あ……ああ、これ?」
 間近に迫った真剣な顔に動揺しながら、九龍はひらひらと手を振ってみせた。
「いやルイ先生にさ、大げさに手当てされちゃって。本当はこんなの貼らなくても、もうほとんど治りかけてんだけど」
「……そうか」
 笑いながら答えたが、頷いた皆守の手は離れない。上向かせるような姿勢で、更に傷の上を撫でてくる。
「え、えーと……?」
 彼の意図が読めず、九龍は笑顔を引きつらせた。優しく、まるで慈しむかのような仕草に、ざわりとした感覚が背筋を走る。慌てた九龍はその波を振り払うべく、持ってきた袋を掲げてみせた。
「ほ、ほら皆守、五つも買ってきてやったぞカレーパン! 昨日言われたとおり俺の奢りだから、存分に食え!」
 逃げた分だけ離れた空間に差し出すと、皆守は九龍に触れたまま、それを見て少しだけ目を見開いた。一度瞬きをして視線を移し、みるみるうちに笑顔になって。
―――九龍」
「え」
 犬を誉めるような勢いで、でかしたと言いたげにわしわしと頭を撫でられる。
「ちょうど食いたいと思ってたとこだったんだ。昼はやっぱりカレーパンだよな!」
「え、ああうん、そ……そうか」
 さっきの妙な空気など忘れたかのように、早速包みを取り出している友人を見て、九龍は呆然としてしまった。な、なんなんだ、たかがカレーパンで急にこの嬉しそうな態度。ていうかこいつ今、俺のこと名前で呼んだ……よな?
「なんて顔してんだ」
 ぽかんとしている九龍に、皆守が苦笑してくる。
「これを全部独り占めするほど、俺は飢えてないぞ?」
 放り投げられた新しいパンを反射的に受け取って、九龍は再度皆守を見つめた。食べることに集中し始めたらしく、今度は気づいてくれなかったが。
「なあ、九龍」
 呼びかけられて、包みを剥く手が思わず止まる。―――なあ、九龍。ああ、やっぱり聞き違いじゃなかったのか。
「お前はカレーの中で何が好きだ?」
 質問しておきながら答えを待たず、皆守は珍しく饒舌に語り始めた。
「肉か? 野菜か? それ以外にも、シーフードカレーや豆カレーやハーブカレーなんてのもあるが。そもそも四種類のスパイスがあれば、それでもうカレーだからな。クミン、コリアンダー、チリ、ターメリック、これを同じ分量ずつ―――
 楽しそうにカレー話を続ける皆守の隣で、九龍は笑ってパンにかじりついた。また一緒に食いに行こうなと微笑む声を聞いて、俺も甲太郎って呼ぶべきなのかな、などと思いながら。
 彼が灯した頬の熱は、やがて薄れて綺麗に消えた。




 ―――鍵が開いている。
 予想外に軽く回ったドアノブに、皆守は盛大なため息をついてしまった。
「無用心にも程がある……」
 お前は本当にプロの《宝探し屋》か。呟いて舌打ちをすると、『葉佩九龍』と書かれた扉を押し開けた。
 午前八時前。既に学校へ行く仕度を整えていることが、皆守自身も我ながら奇跡だと思う時間帯だ。それもこれも昨日の放課後、担任の味方であるこの友人に、しつこく何度も釘を刺されたせいだった。
「朝一ヒナ先生の授業だからな、遅刻するなよ!」
「ふふふ、皆守君に葉佩君みたいな友達ができて、先生も嬉しいわ」
「任せて下さいヒナ先生、皆守更正作戦の隊長ですから俺!」
 にこにこ微笑んでいる雛川と、ガッツポーズを取る九龍を、皆守は憮然としながら無言で見つめていた。
 それは一体どういう作戦なんだ、いつからお前が隊長になったんだ、いや隊長というからには他に隊員がいて組織が結成されているのか。ツッコミを入れたいところは多々あったが、相手にせず無視する方が賢明だと思われたのだ。
「んじゃ皆守、明日の朝七時半に迎えに行くからな!」
 部屋の前で別れる間際、そう言って手を振った九龍の笑顔を思い出す。余計なお世話だと返しながら、ふと目を覚ましてみれば朝の七時。二度寝するかと瞼を閉じた皆守は、少しだけ想像して口元を綻ばせた。
 絶対に寝ているものと思って、九龍はドアをノックするだろう。あるいは強硬手段で無理やり起こすべく、勝手に鍵を開けて入ってくるかもしれない。そうしたらとっくに起床して、準備万端の自分が待っている―――きっと、驚くに違いない。
 いつもいつも、彼には振り回されているような気がするのだ。たまには仕返しも悪くないと思い、すぐ登校できるよう起きて着替えてみたものの、七時半を過ぎても隣の友人は起こしに来ない。……まったく、遅刻するなと言っていた本人が寝坊してどうする。
「九龍」
 明らかに不機嫌な声で、皆守はずかずかと部屋に足を踏み入れた。主はまだ夢の中らしく、ベッドの上で熟睡しているのがわかる。
 どうせまた、遅くまで遺跡を探索していたのだろう。机に置きっ放しの生徒手帳を一瞥して、皆守は目を眇めた。脳裏に浮かぶのは、窓から見下ろした昨夜の光景。
 やる気満々にラケットを振り回す八千穂と、お供しますゥと九龍の腕をつかんでいる椎名。独りでこっそり忍び込むつもりが、見つかってしまって仕方なく、といったところだろうか。……あの二人がバディじゃ、さぞかし精神的に疲れたことだろうな。
「おい九龍、起きろ」
 再度呼びかけるも反応はなく、わずかに生返事が漏れただけだった。せっかく朝のホームルームが始まる前に教室に入る、という偉業を成し遂げようとしているのだ。証人として道連れにしなければ気がすまない。
 くわえていたアロマパイプに火をつけて、皆守は布団の塊を蹴った。うう、と呻いた九龍が寝返り、少しだけ眉を寄せた後、また静かに寝息を立て始める。
「お前、危機感なさすぎるぞ……」
 部屋に鍵はかけ忘れ、他人が入ってきても起きる気配なし、蹴られてもいまだ熟睡。
 思わず呆れた言葉には、完全に苦笑が混じっていた。仮にもこの學園に潜入している《宝探し屋》で、《生徒会》から命を狙われていると言っても過言ではない《転校生》のくせに。
「まったく……」
 緊張感も何もない、平和そうな寝顔を眺めてみる。取り立てて美形という造作でもないと思うが、転校初日から女子に人気があると八千穂が言っていた。今はその人懐こい性格が手伝ってか、同級生だけではなく後輩にも熱烈なファンがいるとかいないとか。―――別に、どうでもいいことだが。
 知らず眉を寄せた皆守は、ふと、九龍の頬に残ったわずかな傷痕に目を留めた。取手の力の効果か、瑞麗の手当てのおかげか、先日の怪我も既に完治しつつあるようだ。それとも、彼自身の意志の強さの現れだろうか。
 ―――俺は死なないよ、皆守。
 決して揺るがなかった瞳と、にっこり笑って告げた唇。爆風の中、切り取られたあの一瞬が浮かび上がる。
「……」
 紫煙を吸って、皆守は視線を滑らせた。頬の傷痕から尖った顎を辿り、緩やかな線を描くその首へ。無意識に伸ばした手は、触れようとして躊躇したまま。
「……起きろよ、九龍」
 自覚なく呟いた声は、どこか切実な色を滲ませていた。すぐそこに、体温がある。呼吸がある。脈打つ鼓動、生きている証。友人は眠りに堕ちたまま、微動だにしない。
「でないと、俺は―――
 俺は。
 言いかけて、飲み込んだ。自分が何を言おうとしたのか、何を言いたかったのか、すぐに忘れたふりをした。きっと、その方がいいと思った。
 八時の時報が、遠く耳に響いてくる。鼻腔をくすぐるラベンダーの香りに、少しだけ伴う胸の痛み。
「ふん」
 瞬いた感情を振り払い、わざと皮肉げな笑みを作ると、皆守は両手をポケットに突っ込んだ。いつもの冷めた半眼で、深く息を吐いて。
 ゆっくりと、片足を上げる。目覚める気配のない彼を捉え、臨戦態勢で狙いを定める。
 上等じゃないか、起きろ九龍。でないと、俺は。
―――俺は、本気で起こすぞ」
 放たれた上段蹴りが、ぶん、と空気を引き裂いた。




 何かが落ちた派手な音に、階下の後輩が驚くのと。
 短い悲鳴が、それに重なるのと。
「皆守甲太郎の鬼! 悪魔! 人でなしーッ!」
 文句をわめく声が寮中に響き渡るのは、その直後のことだった。






→NEXT 4th. Discovery#1



20130301up


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