木乃伊は暁に再生の夢を見る5th. Discovery #2 |
少々寝ぼけ眼を擦りながら昼休みの屋上に出ると、爽やかな秋晴れの空が広がっていた。おお、これぞ昼寝日和だね。 思ったとおり、給水塔の陰で皆守がうとうとしている。そして少し離れた隣にも、同じようにもたれている生徒の姿があった。おや、と九龍は首を傾げる。夕薙だった。 「よッ、葉佩」 「おー、珍しいツーショットだな」 微笑を浮かべた彼に言いながら、九龍もよいしょと腰を下ろす。皆守を起こさないよう気遣って、場所は夕薙を挟んだ反対側だ。 「太陽の下で昼寝というのも、なかなかいいものだな」 甲太郎の気持ちもわかる気がするぞ、と夕薙は屈託なく笑う。 「これなら、一日中昼間の方がいいな。毎日が昼間ならそれだけ活動できる時間も増えるし、犯罪なんかも多少減ると思うんだよ。……夜なんざ、なければいいのにな」 最後はどうやら独り言だったらしく、何故かそこに切実さを感じて、九龍は訝しげに夕薙を見た。彼は空を見上げていて、視線は合わなかったが。 「そういえば、君に一つ訊こうと思っていたことがあったんだ。君は、白岐と親しいのか?」 「白岐ちゃん?」 突然の質問に、九龍は思わず目を丸くしてしまった。親しいというよりもむしろ、逆に嫌われているような気がするのだが。 「特に親しいわけじゃないけど、なんで?」 首を傾げると、夕薙はそうかと頷いて。 「君は気にならないか? 彼女がいつも、一人で何を眺めているのか」 「……ああ、まあね」 転校初日に初めて会ったときも、白岐は窓から一心に何かを見つめていた。その視線の先も含め、彼女が《墓地》に関する何を知っているのか、確かに九龍は気になっている。この學園は呪われているの―――さらりと告げた冷たい瞳で、彼女は何を見ているのだろう? 「俺は、大いに興味がある。彼女のように神秘的な女性は初めて見るよ。どうにかして、彼女の謎を解き明かしてみたいものだな」 「……それは恋愛対象として、白岐ちゃんが気になってるってことか?」 「そうだな」 九龍が口を挟むと、夕薙はあいまいな笑みを浮かべて。 「君がいつか、恋敵にならないことを祈ってるよ」 「―――は?」 一瞬、ぽかんと口が開いた。恋敵。俺が? 「君とは同じ転校生同士、友好を深めていきたいと思ってるからな」 「……ははは、うん、俺もだよ夕薙」 いや、俺とお前だったら、白岐ちゃんは迷わずお前を選ぶんじゃないかなあ。 力なく笑う九龍を、夕薙はいつもの微笑で見つめている。そのとき《H.A.N.T》がメールの受信を告げてきた、かと思うと。 「あ〜らッ、葉佩ちゃん!」 屋上のドアを開けて、飛び込んできたのは朱堂だ。今日も派手なメイクに、薔薇の花を一輪くわえている。 「こんなところにいたのねッ、探したのよ〜ッ!」 その勢いのまま走り寄ってくるが、途中で皆守の足に引っかかって盛大にこけた。……お前、今のわざと足出しただろ。寝たふりだったのか? ぎゃん、と叫んで顔面を打ちつけた朱堂だったが、それでも怯まず九龍に迫ってくる。 「ね、ね、メール見てくれた?」 「え? ああ、今来たメールかな」 その迫力に後ずさりながら、九龍は《H.A.N.T》を開いた。愛しのマイハニーという件名だけで脱力して、黙ってまた閉じる。 「何よッ読んでちょうだいよ! 茂美の心のポエムなのにィィッ!」 スカーフを噛み締めて悶える朱堂を見て、夕薙も苦笑しているのがわかる。わ……悪いな夕薙、俺がいたせいでこんな濃いキャラが昼寝の時間を邪魔して。 「それよりも葉佩ちゃん、こんなところでお昼寝したらモロに紫外線を浴びちゃうわ。お肌のことを考えたら、あんまりよくないのよォ? ちゃあんと紫外線対策してる?」 「お肌? いや、男なんだからそんな気にしなくても……」 「ダメよ!」 朱堂はぶるぶると首を振ると、びしりと指を突きつけた。 「葉佩ちゃんってば、せっかくキレイなお肌してるんだから! 今度アタシの部屋へいらっしゃいな、すどりん流日焼け対策教えてあげるわ! もうじっくりたっぷり手取り足取り腰取りぐはッ!」 じりじりと九龍に迫っていた朱堂の身体が傾いて、彼はまたも顔面を打ちつけた。見ると、いつの間にか皆守が起き上がっている。苛立ったように軽く足を振って。 「……うるさくて、寝られやしない」 ぼそりと言うと、また座り込んで目を閉じた。なんだかどこかで見たような図だな、と思った九龍はすぐ苦笑する。ああそうかツッコミ蹴り、皆守と俺の図だよ。 呻いた朱堂はそれでも懲りずに、今度は夕薙ににじり寄った。 「ねェねェ夕薙ちゃん、今夜どう?」 「遠慮しとくよ」 対する夕薙はさすがに余裕の表情で、軽く笑ってあしらった。あら残念、とあっさり諦めた朱堂は、今度は寝ている皆守に迫る。 「じゃあ、皆守ちゃんは……ぶッ」 言い終わらないうちに、皆守の足がその脳天にヒットした。彼は長い足を横に薙いで、朱堂を遠くへ蹴り飛ばす。に、人間サッカーボール? 「うぐ、ぐ……ああん、やっぱりアタシには葉佩ちゃんだけだわァァッ!」 「なんでそうなるんだ!」 めげずに起き上がって駆けてくる朱堂を見て、九龍は慌てて夕薙の後ろに隠れた。その瞬間襟首がつかまれて、強い力で引っ張られる。耐えられず仰向けに倒れた九龍の視界に、ものすごく不機嫌そうな皆守の顔が見えた。 「ひ、膝枕ッ……!」 がーん、と朱堂が擬音つきで大げさなポーズを取る。なんですと? 屋上のコンクリートで後頭部を打つかと思ったが、倒されたのはどうやら皆守の足の上のようだ。うわ確かに膝枕、つか脛枕? 「皆守甲太郎ッ! アナタ、やっぱりライバルだったのねッ!」 悲鳴じみた朱堂の声にも、皆守は我関せずとアロマを吐くだけだ。が、その手は起きようとする九龍をしっかり押さえつけている。 「いいわ、受けて立つわッ! どっちが葉佩ちゃんに相応しいか、勝負よォォッ!」 勝手に盛り上がって勝手に宣言して、朱堂はオホホと高らかに笑いながら去っていった。なにやら台風一過の様相で、屋上に初秋の風が吹き抜ける。え、えーと。 なんか、かなりの勢いでどっと疲れたんですけど。 「とりあえず皆守さん? 離してくれると嬉しいかな、なんて」 脱力した九龍は、いまだ肩を押さえつけたままの友人に声をかけた。皆守は半眼で九龍を睨み、にやりと皮肉げに口角を上げて。 「隙だらけだな。そんな様子じゃ、あの変態の毒牙にかかるのも時間の問題だ」 「……ッ」 馬鹿にしたような言い方にかちんと来て、九龍は反射的に右手を伸ばした。笑う皆守の唇から、素早くアロマパイプを抜き取ってやる。 「な」 皆守が驚きに目を見開いて、力が緩んだ一瞬に、ひらりと身を翻した。軽く片手で宙返り、あっという間に距離を取る。 「やり、ゲットトレジャー!」 にっこり笑って、言ってやった。突然のことに反応できなかったのか、皆守はまだ絶句している。そんな二人の様子を、夕薙が微笑ましそうに眺めて。 「……仲がいいんだな、君たちは」 「ええもう、ラブラブですから!」 奪ったパイプを弄んで、九龍は大げさにふざけてみせた。皆守は無言のまま、仏頂面でまた目を閉じる。あれ? いつもの蹴りが来ない。 「……ほら皆守、悪かったって」 本気で怒っているようにも見えたので、仕方なく謝りながらパイプを差し出した。唇をへの字に曲げたまま無視する彼に、それでも悪戯心が湧き上がる。 「はいあーんして、痛ッ」 ハートマークを装備した台詞の途中、今度は問答無用で蹴りが入った。……うん、やっぱりこの方が皆守らしいや。 蹴られ倒れて、九龍の視界が緩やかに回転する。どこまでも青い空と、刷毛で描いたような白い雲。取り戻したパイプをくわえる皆守の唇は、笑っているように見えた。 六時限目、体育。遅れて体育館に現れた皆守を、クラスメートたちは呆れ顔で迎えた。 輪になってパス練習をしていた九龍も例外ではない。時計を確認すると残りあと十分ほど、つまり授業も既に終わり間際の時間なのだ。 遅いぞと注意した体育教師には目もくれず、よォ、と皆守はあくび混じりで九龍に声をかけた。そのまま渋々といった様子で、バスケットボールの輪に入ろうとするが。 「待て、参加するならちゃんと準備運動を済ませてからにしろ」 笛を鳴らして注意されて、皆守はめんどくせぇなあと言いたげに頭をかいた。 「二人一組でストレッチだ。おい葉佩!」 「はい?」 「皆守と組んでやれ」 「え、なんで俺なんですか」 「いいから早く!」 有無を言わさない教師の指示に、九龍はため息をついてボールを放り投げた。どの授業もサボりがちな皆守は、どうやら他に組ませられるような相手がいないらしいのだ。先生まで親友公認か、と思って少しだけ笑う。……ま、単に厄介な問題児の世話、押しつけられてるだけかもしれないけど。 「ずっと屋上で寝てたのか?」 体育館の隅に移動した九龍は、座った皆守の背中をぐいぐいと前屈させながら聞いてみた。どうせなら放課後までサボるかと思っていたのだが。 「ああ、雛川に見つかったのが運のつき……いたたッ、そんなに押すな!」 「あれお前、身体硬かったりする? そうだな、寝てばっかだもんなー」 「誰が硬いって?」 からかうと、半眼が振り向いて睨みつけてきた。おもしろくなった九龍は、背中から抱きつくようにして思い切り体重をかけてやる。案の定、痛い痛いと訴える声。 「やりすぎだ、お前は!」 「えー、普通じゃん?」 「もうちょっと手加減しろ」 「これ以上手加減したらストレッチにならないぞ?」 「お前は普通の基準がおかしいんだよ!」 「そんなことないって」 「い……ッ、おい九龍!」 言い合いながら攻防戦を繰り広げていると、何故か静かになっているクラスメートたちに気がついた。誰もが奇異の目でこちらを見ている気がして、ああそうかと納得する。皆守って、いまだに無口で無愛想でサボり魔で寝てばかりいる静かな不良、ってイメージなんだな。珍しいんだろうなあ、こういう素の姿。 「そこ、じゃれてないでちゃんとやれ」 ピ、と教師が笛を鳴らして言った。いや、別にじゃれてたわけじゃないです先生! 結局ストレッチだけでチャイムが鳴ってしまい、今日はこれで授業終了となった。ろくに運動していないくせに、やれやれと皆守がため息をつく。 「終わったか……午後の体育ほどダルいもんはないな」 アロマパイプをくわえたまま、腰を押さえて伸びをして。 「……ったく、お前のせいで腰が痛い」 「運動不足じゃないか? 身体使わないとどんどん衰えてくぞ」 悪びれず笑った九龍に、皆守がじろりと睨んで何か言い返そうとした時だった。 数人の悲鳴が聞こえた。女子が体育をしていた、校庭の方からである。 「あ、明日香ッ! 大丈夫ッ?」 「先生ッ、明日香が……八千穂さんが、急に倒れてッ」 ざわめく女子たちの声から悲鳴の原因を知り、九龍は驚いて体育館から外を見やる。皆守も眉を寄せて様子をうかがった。 遠目だが、校庭の隅に人だかりができていた。風に乗って聞こえる、戸惑ったような教師の声。 「……大変だわ、八千穂さんは先生が保健室へ運びます。あなたたちは早くここを片付けて解散しなさい」 大柄の女性教師が、ぐったりしている八千穂を背負う。心配そうに見送られる彼女を目で追って、皆守が舌打ちをした。 「ちッ、やっぱりこうなったか。どうする、九龍。様子見に行くか?」 「ああ、もちろん。当然お前も行くだろ?」 「……ここで放っておいたら、後で何言われるかわかったもんじゃないからな」 などと言いながら、彼も八千穂を心配していることは一目瞭然である。こっそり笑いを堪えた九龍は、皆守と共にすぐ保健室へ向かった。 「失礼しまーす」 「おや、やっぱり来たか」 ドアを開けると、振り向いた瑞麗が微笑で迎えてくれた。 「なんだかんだ言っても、やはり君たちは友達思いだな」 「勝手に決めるな。そんなことより、八千穂はどうなんだ」 皆守の質問に、瑞麗はわずか顔を曇らせて奥のベッドを見やった。 「うむ、随分と衰弱している。だが元々丈夫な子だからな、しばらく安静にしていれば心配ないだろう。葉佩、君は彼女がこうなった原因に心当たりはあるのかね?」 「……はい」 《隣人倶楽部》、もう間違いない。九龍が頷いたのを見て、瑞麗はそうかとまた笑みを刻んだ。 「ならば、君も既に気づいていることだろう。こういった症状で私の元に運ばれてきたのは、彼女が初めてではない。彼女の皮膚には他の者同様、微量なウィルスと思われるものが付着していた」 「ウィルス?」 病原微生物、何故そんなものが。思わず繰り返して、九龍は目を丸くする。その倶楽部がばら撒いている、ということなのだろうか。 「そうだ。恐らくこれらが体内に入り込み、正常な身体機能を阻害したのだろう。感染した者は生命活動に必要なエネルギーをウィルスに吸い取られ、徐々に衰弱する。だが、このウィルス自体はそれほど生命力の強いものではない。それゆえに、継続的に接種することで威力を増すもののようだな」 「継続的に、ですか」 なるほど、と九龍は思った。八千穂は昼のセミナーにも、また部活に行かず放課後のセミナーにも出ていたようだった。いつからなのかは定かではないが、のめり込みやすい彼女のことだ。きっと噂を聞きつけたときから、ずっと参加していたのだろう。 「《隣人倶楽部》か……」 皆守も同じことを考えていたのか、独り言のように呟いた。瑞麗が穏やかな微笑を浮かべる。 「フッ、君にしては情報が早いな。いつもは他人のことなど、どうでもいいという顔をしているのに」 「もちろん、どうだっていい」 聞きとめて、皆守はふんと鼻を鳴らした。 「ただ、九龍の近くにいると嫌でも入ってくるんだよ。俺は毎度巻き込まれてるだけだ」 「だがそれが不快ではないからこそ、こうして葉佩と行動を共にしているんだろう?」 「……」 言葉に詰まる皆守を、瑞麗がおもしろそうに眺めている。あれ、図星なのか。少しくすぐったくなった九龍は、そうだよな、と考えてみた。皆守って嫌なことはとことん嫌で、見たくも付き合いたくもない、って断固跳ね除けそうだもんな。 「ははは、何にせよいい傾向だよ、君にとってもな。そうして人と関わることを避けずに生きてゆけば、いつかそれも必要なくなる」 楽しげに笑った瑞麗が、それ、と言って皆守の口元のパイプを指した。どこか意味ありげな視線を、九龍はきょとんとして見送った。 何故、彼がアロマを手放さないのか。また、何故それがラベンダーなのか。うかがい知れない過去を思うと、九龍は一抹の淋しさを感じてしまう。何でも知っている、何でも話してくれる、それが正しい友人関係だとはもちろん思わないのだが、それでも。 「葉佩のようないい友達もできたことだしな?」 「あ、はい、それはもうッ」 見つめられた瑞麗の目に、九龍は反射的に同意した。大げさに頷いてしまった後で、いい友達か、と反芻する。君は素直な子だな、と瑞麗が笑う。皆守は苛立たしげに頭をかいた。 「くそッ、こんなことならわざわざ来るんじゃなかった。とっとと帰―――」 言いかけた半ばで、ベッドの方からかすかな声が上がった。八千穂の小さな呼びかけに、九龍は瑞麗に続いてベッドに駆け寄る。 「九龍クン……? 皆守クンも……」 「誰かさんが騒ぐから、起こしてしまったようだな。気分はどうだね?」 「あ……はい。何だかふわふわするけど、大丈夫、です」 視線を虚ろに動かして、八千穂は微笑を浮かべてみせた。普段からは想像できないその儚さが、九龍の胸に突き刺さる。 「二人とも、来てくれたんだ……えへへ、ありがと」 「明日香ちゃん……」 締めつけられるような思いで、九龍は声を絞り出した。昼よりも表情に覇気がなく、さらにやつれているようにも見える。 「……これでわかったろ、もうあの集まりに行くのはよせ」 アロマを吐きながら、皆守がぶっきらぼうに忠告した。でも、と呟く八千穂を遮って。 「でも、じゃないだろ。お前がこうなったのは、あの《隣人倶楽部》のせいなんだよ」 「でも……でもね」 苛立ちを増した皆守の言葉に、それでも八千穂は反論する。 「たとえそうだったとしても、タイゾーちゃんがみんなを救いたいって思ってる気持ちは嘘じゃない気がするの。でも何か理由があって、ちょっとその方法を間違えちゃってて……」 「……」 「とにかくタイゾーちゃんにも責任はあるかもしれないけど、悪いのはタイゾーちゃんだけじゃなくて、取手クンや椎名サンのときみたいに何か理由があるのかもしれなくて、それに―――それに何より救われたがってるのは、タイゾーちゃん自身なんだと思うの」 訴えるように続ける八千穂の言葉に、皆守も九龍も無言だった。取手や、椎名のように。 何かを失くし、自分が救いを求めていることにも気づかず、ただ《墓守》の本能に捕らわれる《生徒会執行委員》―――もしかすると、彼もそうなのかもしれないと。 「八千穂、ともかく今はもう少しここで休んでゆくといい。後で私が寮まで送っていこう」 煙管を叩いた瑞麗が、優しく制するように言った。ありがとルイ先生、と笑った八千穂に頷いて。 「うむ、君たちもそろそろ帰りたまえ。もうじき、下校の鐘が鳴る」 「はい」 素直に頷いて、八千穂に軽く手を振って、九龍は皆守と共に保健室を後にした。帰ったら女子寮にお見舞いに行こう、と九龍が考えていると。 「まったく、どいつもこいつも……一体いつからここはお節介の溜まり場になったんだ」 皆守が大げさにため息をついた。視線は九龍を通り過ぎ、つられて振り返る形になる。 「なァ―――白岐」 「……八千穂さんの具合は?」 そこには、長い髪の女生徒が立っていた。抑揚のない低い声と、憂いを映す瞳が無表情を際立たせる。それでも不安そうな様子で、白岐は二人の返事を待った。 「とりあえず、生き死にに関わるような話じゃないのは確かだ」 「しばらく安静にしてれば心配ないって」 「……そう……よかった」 安堵の笑みを浮かべたように見えた白岐は、その視線をまっすぐ九龍に向けた。 「《汝の隣人を愛せ》―――あの集まりでは確かにそう説いているわ。彼らは魂を吸い取られ、衰弱しきってゆくことすら幸せへの道と信じて疑わない。愛すべき隣人のために、何もかも差し出すことが幸せへの道だと……」 彼女も八千穂が倒れた原因を知っていたらしく、淡々と言って目を伏せた。九龍は唇を噛み締める。何も知らずに喜んで、自らウィルスに侵されてるってわけか。 「けれどその言葉だけが一人歩きして、本来の意味を損なっている。《汝の隣人を愛せ》―――葉佩さん、あなたはこの前に語られるべき言葉を知っている?」 「……ああ」 八千穂が何時のニンジン、などとうろ覚えに言ったときは思いつかなかった。聖書に綴られている博愛精神の言葉、《汝自らを愛するが如く、汝の隣人を愛せ》だ。 「そう。裏を返せば、自らを愛することなく他者を愛することなどできないということ。あの倶楽部で教えを説いている者に欠けているのは、正にその感情」 「……自らを省みない者に、真に他者を思いやることなどできない、か」 「だからこそ、こんな悲劇が起こる……」 静かに語る白岐の言葉を受けて、皆守がぽつりとひとりごちた。 「どうしてそんなことをわざわざ俺たちに? いや―――」 言いかけた皆守の視線は、ふと九龍に向けられて。 「ひょっとすると九龍に、ってのが本音じゃないのか?」 「……わからない……」 珍しく戸惑ったような表情を浮かべて、白岐はまたうつむいた。 「私自身も、葉佩さんに何を期待しているのか……。彼女が倒れたことに、どうしてここまで動揺しているのか……私にも、よくわからないの……」 そう言って、しばらく無言で目を閉じる。そのまま何か言うのかと思いきや、ふいに背中を向けてしまった。 「……それじゃ」 「あ、おい―――」 呼び止めた声など聞こえなかったように、白岐は振り向きもせず去ってゆく。皆守はがしがしと頭をかいて、相変わらずわからない女だな、と呟いた。 「とにかく、まずは着替えに戻ろう。ジャージで帰るはめになるぞ」 そうだなと同意して、九龍は揺れる長い髪を見送る。期待。彼女は、《転校生》に何を期待しているのだろう? 戻った教室には、既に誰も残っていなかった。部活動の準備をしている生徒たちの声が、遠く校庭から響いてくる。 「……まったく八千穂の奴、元気だけがとりえみたいなくせに何やってんだか……。それにしても、まさか白岐が八千穂のことを気にしてたとはな」 だらだらと着替えながら、皆守が独り言のようにして話しかけてくる。 「後であいつに教えてやったらきっと喜ぶぞ。何だか知らないが、随分白岐に興味があるみたいだったからな」 「ああ、なんか友達になりたがってたな」 正反対のタイプだと思われる二人だが、だからこそいいコンビになるのではないかと九龍は思う。何事にも無関心に見える白岐には、多少強引に引っ張ってくれる八千穂のような友人が必要だろう。 「……」 「……なんだよ?」 ふと連想した九龍は、思わず皆守を見つめてしまった。Tシャツを脱いでいた皆守が、訝しげに見つめ返してくる。 「や、なんでもない」 白岐と八千穂は、なんだか皆守と自分に似ているのではないか。そんなことを思ったのだが、すぐに笑って思い直した。俺は明日香ちゃんほど強引じゃないもんね。 「……何笑ってんだ」 「ううん、なんでもないって。あら皆守さん、脱ぐと意外にイイ身体ぶッ!」 誤魔化すようにしなを作ると、言い終わらないうちに蹴りが飛んできた。わかっていたくせにもろに受けて、九龍は脱ぎかけたジャージのまま派手に倒れてしまう。こ、腰直撃……もしかしてストレッチの仕返しか? 「お前は朱堂か。ふざけてないで早く着替えろ」 いててと呻きながら起き上がると、学ランに袖を通した皆守が呆れ顔で見下ろしていた。 「え、すどりんだったら即行で襲い掛かるっしょ」 「……」 さらりと言うと、明らかに警戒の目で睨みつけてくる。いや、すどりんだったら、だよ? 俺はさすがに襲い掛からないよ? 笑いながら、九龍は途中だった着替えを再開した。皆守はそれを黙って眺めながら、アロマに火をつけて。 「……なァ、九龍」 着替え終わるのを待っていたように、遠慮がちに声をかけてくる。 「これからちょっと、噂の倶楽部に顔を出してみないか? 何か、さっきから妙に苛々するんだ」 言われなくても行くつもりだった九龍は、一瞬驚いた後、すぐに頷いて笑ってしまった。 その苛々はきっと、八千穂が倒れる原因となった例の倶楽部に対する怒りなのだろう。が、自身でそれが何なのかわからずに、また苛々が増しているに違いない。それとも、理解しているからこそなのか。結局、彼もやはり八千穂のことを気にしているのだ。 「ともかくそのタイゾーとやらの顔を拝んでおかないと、収まりそうもない。行こうぜ」 「了解」 ジャージを片付けて、九龍は軽く敬礼をした。
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