木乃伊は暁に再生の夢を見る

6th. Discovery #4










 いつものように窓から部屋を抜け出して、九龍は一人墓地に向かった。単独で入るのは久々だった。これが当然だったはずなのに、仲間を伴うことに慣れた今は淋しさを感じずにはいられない。見慣れた遺跡もどこか静寂が重いのは、周囲に誰もいないからだろう。
 大広間に降り立って、位置を確認する。七時の方角に立ち昇る、淡い光。
『メールを受信しました』
 突然響いた《H.A.N.T》音声に驚いて、九龍は扉にかけた手を引っ込めた。七瀬からか、それとも《ロゼッタ協会》配信のメーリングリスト『トレジャーハンターマガジン』か。ああびっくりした、と息を吐きながら開いてみると。
「皆守……」
 少し意外だった差出人の名前を呟いて、なぞってみる。件名は『エアコン』、本文は短く一行だけ。
『まだ直ってないそうだ』
 ぶ、と思わず吹いた。九龍が寮に戻っていないことを知り、わざわざ管理人に確認してくれたのだろうか。メールはそれだけだったが、つまりは俺の部屋に来るなら来てもいいぞ、ということなのかもしれない。ああもう、しょうがないなコイツって。
『七瀬が不審者を見たって言うから、様子を見に女子寮にいる。消灯までには帰る』
 適当な言い訳を打ち込んで、時間を確かめた。真里野との約束にはまだ余裕があるし、三時間もあれば片がつくだろう。今度は自分の姿をした七瀬も含めて、皆守にはちゃんと事情を説明したいと思う。
 七瀬月魅として突き放された今も、彼ならわかってくれるはずだと信じていた。誰にも言わない方がいいと瑞麗は言っていたが、それでも。
 ああそうだ。姿が変わったくらいで俺がわからなくなるような奴、親友認定したくねーもんな。もう一緒にカレー食ってやんねーし、カレーパンのパシリもお断りだし、移されてしまうラベンダーの匂いだって断固拒否だ。消臭剤常備してやる。
『早く帰ってこいよ』
 簡潔な返事に、すぐ簡潔な返信が来た。風邪を心配してのことだろうが、お前は俺のオカンか、と突っ込みたくなった。くすくす笑いながら、九龍はそっと《H.A.N.T》を閉じる。さて、と気合を入れ直して。
「んじゃ、待っててくれるママンのためにも頑張りますかね」
 ひとりごちると、扉を開けた。
 新たに足を踏み入れた区画は、まず涼しさに身体が震えた。青っぽい壁と、頭上に日輪を抱いた人物の壁画。どこからか、水の流れる音が聞こえてくる。
 静か過ぎる狭い通路を、九龍は息を潜めるようにして抜けた。柱と壁画が並んでいる部屋に出る。扉の前には、見慣れた石碑。
「『鰐鮫と兎、どちらが多いか調べよう』―――気多岬、因幡の白兎か」
 呟いて、《H.A.N.T》に打ち込んでおく。伊邪那岐と伊邪那美の国生みから始まったこの遺跡の古事記も、大国主神の部分まで進んだことになる。
 扉を開けると、まず川が目に入った。そして木の橋の上に、蛙のような化人が四体。
「早速か」
 敵影を告げる《H.A.N.T》音声より前に、九龍は素早くマシンガンを構えていた。忘れるな、この身体は七瀬月魅のもの。改めて誓って、照準を合わせる。今回は残り弾薬を気にせずに、遠距離から安全優先で戦った方がいい。
 セミオートで銃弾をばら撒くと、そのたびに反動でサイトポインタがずれた。やはり七瀬の身体では負担がかかるのか、九龍はしっかりグリップを握り、腰を落とし、足に体重を乗せて引き金を引く。うう、先が思いやられる。
『敵影消滅』
 化人を倒してしまうと、部屋はまた静かになった。流れる川のせせらぎが、静寂を更に強調する。足元の水は驚くほど澄んでいて、一メートルほどの深さに底が見えた。雨水がろ過されて溜まったものだろうか。
 橋を渡った場所には、兎の石像が三つ。その向こうには鰐の石像もある。なるほど、これを操作して鰐の上を跳んで、向こう岸へ渡れということか。
 足元に気をつけて、九龍は軽々と鰐を跳ぶ。跳び越えたところに、扉と石碑があった。
『大穴牟遅神を襲う三つの罠。焼ける岩。大木の裂け目。殺意の矢』
 大穴牟遅―――オオナムチは八十の兄弟神たちを押しのけて、因幡のヤカミヒメに見初められる。それが気に入らない八十神たちは、罠を仕掛けて彼を殺そうとする。岩、大木、矢。同じ罠が待ち受けているということか、それともギミック解除のヒントか。
 慎重に扉を開けると、途端に視界が闇に閉ざされた。《H.A.N.T》が罠の作動を告げる。九龍は即ノクトビジョンを立ち上げて、緑色の熱線視界の中、部屋の構造と仕掛けの位置を確かめた。
 正面奥に、次の部屋へ続く扉。恐らく施錠されているだろう。その横にスイッチのような仕掛けがあるが、ここからではよく確認できない。北の奥には炎の紋様と、恐らくギミック解除のための仕掛け。そして壁には、いかにも何かが飛び出してきそうな穴が複数見えた。どういうタイミングでどう作動するのかわからないが、明らかに罠だ。
 焼ける岩、大木の裂け目、殺意の矢。石碑の言葉を反芻する。北にある炎の紋様は、焼ける岩を表していると思われる。ならばその三つの順に仕掛けを解除せよ、ということか。
 確信して、節約のために熱線視界を落とす。暗視ゴーグルの電池は切れやすく、いざというときに暗闇が襲うと危険なことこの上ないからだ。九龍は頭に叩き込んだ部屋の構造を思い描いて、素早く自分がなすべきことを組み立てた。
 まず、狭い橋の上を北へ走る。炎の紋様が彫られた石板の下、八十神の顔を模したのか鼻の形のスイッチがある。最初は焼けた岩だ。倒すと、かちりと音がした。
 振り返って、また一瞬だけ暗視機能を使う。ブン、と虫の羽音に似た起動音。
 最初に入ってきた扉の近くに、木の紋様がついた顔が見えた。ということは、あれが二番目の大木。次に進むべき扉の横にあった残りのスイッチは、三番目の矢ということになる。
 闇の中を壁伝いに、大木を示す仕掛けまで一気に駆ける。壁の向こうから、罠が発動する気配がする。
 滑り込むようにして、九龍は二番目のスイッチを引いた。同時に、背後で何かが横切る。反射的に身を伏せるようにして縮め、音でそれらを確認する。矢が飛び交い、炎が噴き出し、槍のようなものが繰り返し下りる。三つの罠が作動し終わり、また静かになったところで。
「ラスト!」
 宣言して、九龍はそこを飛び出した。もう暗視を使わなくても、最後の仕掛けの位置は頭の中に見えていた。橋のギリギリを蹴って、向こう側の橋に飛び移る。矢を描いた仕掛けはすぐそこだ。
『罠を回避しました』
 鼻をつかんで引き倒すと、《H.A.N.T》がいつものように素っ気なく告げた。九龍は安堵に息をついて、次の扉に向き直る。暗闇の中、しばし深呼吸をして。
 自分の身体じゃないせいか、あまり無理ができないせいか、早くも足とかギシギシいってんですけど。
 時間との勝負かもしれない、と九龍は思った。精神はともかく、慣れない運動に肉体が悲鳴を上げているのだろう。いかにも運痴の文学少女っぽいもんな、七瀬って。
 次は足元を流れる川と、橋が南北に分かれた狭い部屋だった。普通に明るく、敵もいない。南には石碑と女性の石像、その胸に札のようなもの。北にはくぼみが二つ。扉は施錠されている。
 ざっと見渡した九龍は、まず石碑の文字を解読した。
『須勢理毘売の呉公と蜂の比礼。授かる前に、火薬を持ちて試練に備えよ』
「スセリビメのムカデとハチのヒレ、ね」
 繰り返して、九龍は石像を振り返る。あれがスセリビメで、胸にある札が比礼だろう。
 スセリビメはスサノオの娘だ。訪ねてきたオオナムチを助けるために、蛇の比礼、呉公と蜂の比礼を用意する。
「火薬を持ちて試練に備えよ、ってことは……」
 呟きながら、まず胸元の蛇の比礼を手にした。向こう岸、西のくぼみに蛇の紋様が彫られていたので、それをはめ込む。背後の像から音がして、ふわりと淡い光が立ち上ったように見えた。何かが解除されたらしい。
 戻って調べてみると、さっきは動作不可能だった石像が動くようになっていた。右に回転させ、今度は背中にある呉公と蜂の比礼を手にする。
 外したとたん、《H.A.N.T》が敵影を確認した。蜘蛛型の化人が四体、湧いて出るようにしてすぐ隣に現れる。
「うわっとォ!」
 驚きに、九龍は慌ててマシンガンをぶっ放した。勢いがついてフルオートにしてしまい、銃声が小気味よく部屋に反響する。しまった手がぶれて狙いが定まってない、思ったときには敵は全滅していた。
「……えーと……か、快感?」
 一応呟いてみたが、呟いてから虚しくなって、語尾が疑問形になってしまった。
 気を取り直して、もう一枚の比礼をくぼみにはめる。開錠された扉を押すと、水の音がいっそう強くなった。
『敵影を確認』
 広い部屋に待ち構えていたのは、蛙の化人と頭に水槽を乗せた化人だ。
 まず目の前にいた二体を退治し、右へ銃身を振ってそこにいた蛙も消滅させた。次に柱とオブジェを盾にして、向こう側の水槽化人を狙い撃つ。痛い痛い、と呻く声。
 最後の一体は遠く、ここからでは命中しないと判断した九龍は、何も考えずに飛び出した。いつもの癖だった。髪が自分の頬を軽く撫でて、しまったこの身体は七瀬のものだった、と一瞬だけ後悔した。その隙に。
「……ッ!」
 見えない衝撃が空気を裂く。人の顔に似た禍々しい光が、口を開けて襲い掛かってくる。
 ―――いつもなら。
 いつもなら、ああ眠いと面倒くさそうな声がしたはずだ。同時に身体が揺れて、有無を言わさず強引な力に助けられたはずだ。
 ふ、と九龍は笑った。苦笑とも、自嘲ともつかない笑みだった。本当に―――本当に自分は、いつの間にこんなに必要としていたのか。違う。必要としているわけではなく、それが当たり前になっていたのだ。
 鋭く息を吐き、上半身を伏せる。背負っていた長槍を上から抜いて、その勢いで振り下ろした。化人の悲鳴。怯んだところを突いて動きを止めて、マシンガンを連射する。敵は串刺しのまま、光の塵と化した。
『敵影消滅』
 《H.A.N.T》音声を聞きながら、九龍はからんと落ちた槍を拾う。ふーと息をついて、乱れた髪をかき上げた。
 誰かの助けを当然だと思う錯覚は、単独である今は命取りだ。頼れるのは自分しかいない。忘れるな、それが現実。―――それで、当然。
 水の音が、また静寂を連れてくる。九龍は槍を背負い直すと、部屋の隅の石碑を読んだ。
『大穴牟遅神が逃げるその時、天詔琴が根国の木に触れ大地鳴動す。須佐之男命その音に驚き目を覚ます』
 改めて部屋を調べると、中央に木を模した彫像、琴のようなオブジェ、そして道を塞ぐようにして大きな石像が鎮座していた。
「つまり琴を木と石像まで持っていけば、目を覚まして消える……ってことか?」
 ひとりごちて、琴のオブジェを引きずる。石像の前に配置するが、何も起こらない。えーと。
 回りこんで木の彫像を調べると、水圧式動力部に破損を確認、と《H.A.N.T》が告げてきた。
「水圧式動力部……うーん、シリコンとかボンドで接着しないと駄目かな」
 あちこち調べると、どうやら根元の部分が欠けてぐらついているようだ。長い間水に晒されていたせいで浸食されたのだろうか。持ってないな、どうしようかなと考えて、ふと以前皆守にもらったオイルを思い出した。
 当然ながら學園の売店にそんなものは売っておらず、通販取り寄せだったせいで返すのがつい先日になってしまった。早く返せよと呟いた、友人の不機嫌な苦笑が浮かぶ。
 考えてみると、随分彼に助けられているのだと今更悟った。今頃はマミーズでカレーでも食べているところだろうか、それとも早々に寝てしまっているだろうか。後者だったら帰ってすぐ叩き起こしてやろう、そんなことを考えて九龍は笑った。
 持ち物を広げて、少し迷って、救急キットに入っていた包帯と捻挫用のテーピングを取り出した。応急処置でもいい、なんとか動いてくれと祈りながら木の根元に巻きつける。彫像はがたがたと頼りなく、それでもなんとか回転した。キィン、と耳障りな高い音。見ると道を塞いでいた石像も、琴のオブジェも見事崩れて消えていた。
 狭い通路を進んで、次の部屋の扉を開ける。と、滝のような轟音と共に《H.A.N.T》がいきなり作動音を告げた。
 部屋の奥に伸びる木の橋は、床から一メートルほどの高さにある。その下からじりじりと水が満たされてきているのが、この部屋の罠らしい。うわマジか、水攻めかよ!
 慌てて、すぐそばに建てられていた石碑を読んだ。
「海に現れし者……多……た? に、ぐ……く、あー読めねぇ!」
 その間にも、水かさは次第に増してきている。ままよ、と九龍は細い橋を駆け出した。
 さっきの部屋は、オオナムチがスセリビメを連れてスサノオのところから逃げ出したエピソードをなぞっていた。九龍は記憶の中から古事記を引きずり出して、順に思い出す。次はオオナムチこと大国主が、国を治める章だ。兄弟たちを討ち、妻と歌を詠み、そして。
 考えながら角を曲がると、奥に大きな滝が見えた。横の壁には蛇の杖が三つ設置されていて、これを解除すればあの滝が止まる仕掛けらしい。壁にそれぞれ彫られた紋様は、《H.A.N.T》によると南から海、田、河。
「これは……スクナヒコナか!」
 ―――海の向こうから大国主の下へ、小人のような神が現れた。名を聞いても答えない。タニグクに聞くと、クエビコなら知っているだろうと答えがあった。
 石碑から拾った単語に記憶の古事記を当てはめて、九龍はまず海の模様の杖を引く。タニグクはヒキガエル、つまり次は河。そして最後はクエビコ、クエビコとはカカシのことだ。
「……ッ」
 河の杖を引いたときには、増えた水かさが膝まで上がってきていた。足を取られてつまづいて、ばしゃんと倒れてしまう。冷たさと恐怖に身を震わせた九龍は、手を伸ばして最後の田の杖を引いた。滝の音が止まった。
『罠を回避しました』
「は……」
 《H.A.N.T》音声に続き、静かに水が引いてゆく。ぺたりと橋の上に座り込んで、知らず九龍は息をついた。濡れた身体が寒さを訴える。ああごめん七瀬、この身体も風邪ひいてしまうかも。
 水をかぶったせいで、上半身も濡れている。くしゃみをした九龍は、無意識にベストとスカーフの下、透けた下着を想像して慌てて天井を見上げた。ごごごごめん七瀬!
 胸に手を当てて、しばらくそのまま深呼吸する。けれどその手にも柔らかな感触を覚えて、逆効果じゃないかと焦ってじたばたと手を振り回した。ああもう、一人で何やってんだ俺!
 多少は慣れたと思ったが、やはり身体は女性でも中身は変わらず男なのだと意識する。それは間違いなく、自分が葉佩九龍である証の一つだと思う。大丈夫だ、と九龍は笑った。
 止まった滝の向こうには宝物壷が見えた。ワイヤーを張って高台に上り、開けた中身は青く丸い玉。《H.A.N.T》が奇魂―――クシミタマだと告げた。東を意味するものらしい。
 ワイヤーを降りて、はしごを降りる。すぐまた宝物壷と、この区画の最終地点、蛇が向かい合った扉があった。宝物壷の中身は、今度は赤い幸魂―――サキミタマ、南を意味するもの。
 扉の錠前には、四つのくぼみがあった。東は東に、南は南に、と隣の石碑が刻んでいる。なるほど、と九龍は呟いて奇魂を東に、幸魂を南にはめ込む。開錠音がした。
 時計を見ると、七時少し前。間に合ったな、と思いながらもう一度深呼吸をして、九龍は扉を押した。




 部屋の中央で精神を集中していたらしい、真里野がふと目を開けた。九龍を見て―――否、七瀬の姿を見て眉をひそめる。
―――む? お主は確か、葉佩と共におった……」
「はい、今は葉佩九龍の魂を持つ七瀬月魅ですよろしく!」
 明るく正直に自己紹介してみるが、もちろん真里野には通じない。ますます眉根を寄せる彼はとりあえず無視して、九龍は部屋を見渡した。他に人影はない。
「ヒナ先生はどこだ」
「……雛川?」
 九龍の問いは、逆に訝しげに訊き返されてしまう。
「ヒナ先生をさらったって、葉佩九龍にメール寄越しただろ?」
 重ねて問うと、真里野は考え込むように顎に手をやった。
「拙者は葉佩に文など送ってはおらぬ。それに何故拙者が斯様な場所に雛川を連れてこなければならぬのだ? 拙者は、正々堂々と葉佩と死合いをするためにここにいる」
 そうだろうな、と九龍は考えた。メールを読んだときに違和感はあったのだ。わざわざ自分から名乗り出て《墓》に来いと告げたこの男が、そんな罠を張るわけがないと。
 ……では、メールを送ってきたのは一体誰だ?
「そのようなことよりも、何故お主がここに?」
 無事でいてくれヒナ先生と願いながら、九龍は拳を握り締める。とにかく今は目の前の相手をなんとかしなければならない。
「だから言っただろ、葉佩九龍の魂を持つ七瀬月魅だって」
 繰り返したが、真里野はまた眉間に皺を寄せた。
「意味がわからぬ」
「あーつまり、今お前が見てる七瀬月魅は葉佩九龍だってこと」
「……ふッ、そうか」
 じっと九龍を見つめていた真里野の顔が、ふいに合点したように笑みを刻んだ。
「さては、色仕掛けで拙者を懐柔するつもりだな?」
「……はい?」
 そう簡単に通じるわけがないとは思っていたが、なんだか妙な方向へ解釈されてしまったらしい。なんでそうなるんだ、と九龍は呆れて目を見張る。
「葉佩九龍―――男子の風上にも置けぬ輩よ。女子を使ってくるとは卑怯千万なりッ!」
「えーと」
 だからなんでそうなるんだ、と九龍はますます呆れてしまった。改めて自分の姿を見下ろしてみると、濡れたセーラー服が張りついて、見事に身体の線を浮き立たせている、とはいうものの。
「これで色仕掛けって……お前、もしかして女の子に免疫なかったりする?」
 強調されている脚線美をなんとかしようと、九龍はスカートの裾をつまんで振った。張りついていたのは改善されたが、どうやらその際に太腿を悩ましげに覗かせてしまったらしい。あからさまに真里野が後ずさるのがわかった。顔が真っ赤だ。
「ひ、卑怯なり!」
「え」
 裾を持ち上げたまま、九龍はしばらくぽかんとしてしまった。は、と真里野が我に返ったように体裁を整える。え……えーと、マジで有効なんですか色仕掛け?
「お、お主に恨みはないが、女子といえどこの《墓》に入り込む者は斬らねばならぬ。それが《生徒会執行委員》たる者の務めだ、許せ」
「……優しいんですね、真里野さん」
 おもしろくなって、九龍は七瀬を演じて言ってみた。相手が女性だというだけで、明らかに真里野は戸惑っている。そんな純情侍は、またその笑顔に動揺したらしく。
「うッ……そのような笑顔を向けられたら拙者は……くッ、葉佩……このような策を女子に強要するとは……」
 なんだかものすごく悪者にされているようだが、通じるなら使わない手ではない。七瀬には悪いが、この際女だということを活用させてもらった方がいいかもしれない。
「し、死ぬ前に教えてやろう」
 話すことで冷静さを取り戻そうとしているのか、真里野がどもりながらも切り出した。
「拙者の剣は《原子刀》という。右目は見えねど、この左目は万物を流れる脈の《緩み》を視ることができる。息吹く山河や流れる風―――転がっている石や草木にも、無数の《緩み》が存在する。その《緩み》を断つことができれば、この世に斬れないものなどない。つまり、拙者の剣は次元を引き裂いて斬る剣術。斬られても痛みなど感じる間もないゆえ、安心するがいい……って何をしておる!」
 ぎょ、と真里野が目を見開いた。ベストを開いて胸元のスカーフを外した九龍は、にっこり笑って小首を傾げる。
「動きにくくて、邪魔だと思いまして」
「な……」
 スカーフで隠れていた、透けた下着が微妙に露になる。遠目でも真里野には効果覿面だったらしく、耳まで赤くなっているのがわかる。うおお、でもこれってもしかして諸刃の剣? 動揺しつつ、九龍はなるべく見ないように努めた。
「……か、覚悟はよいか!」
 しばし瞑目して、真里野が気を取り直したように言う。
「お主には、ここで死んでもらう―――
 それを合図に、周囲の空気が一気に張り詰めるのがわかった。
 敵影を確認、と告げた《H.A.N.T》音声に、九龍はまずMP5を構える。《墓守》の戦いには化人が群れ集うらしく、どこからか蜘蛛が這い寄ってくる。九龍は手近な一体を撃ち抜き、残りの蜘蛛は手榴弾を投げつけて殲滅した。雑魚に用はない!
 一瞬にして、真里野と一対一になる。消えてゆく煙の向こう、木刀を構えて佇む侍の姿。
「……なかなかやるな」
 ふ、と笑った真里野は、じりじりと間合いを詰めてきた。木刀とはいえ、《緩み》とやらを斬られたらひとたまりもないのだろう。
 背中の長槍を抜いて、構える。近接武器は銃よりも危険は大きいが、短時間でけりがつけられる。肉体が限界を訴えて、動けなくなる前に倒さなければならない。それに色仕掛けは接近戦が効果的、と九龍は笑った。
「その命、貰い受ける」
 言うと同時に、木刀が振り下ろされた。瞬時にそれを長槍の柄で受けて、力任せに弾き飛ばす。《緩み》を狙っての一閃だったおかげか、その力があまり重いものではなかったのが幸いだった。
 バランスを崩した真里野の足元を払い、勢いで回転して槍を振る。く、と呻いた真里野は、後方に跳んでそれを回避した。追って槍先を地に立て、支えにして回し蹴り。ローファーのつま先が綺麗に延髄に入る。
「この……!」
 一瞬だけ傾いた身体を即座に立て直し、真里野が木刀を突き出してきた。仰け反って避けた九龍だが、《緩み》とやらのせいなのか、軽くかすっただけのセーラー服の襟が切れた。ちょうど肩から鳩尾の辺りまで、ギリギリ下着が見えない位置と長さ。女性らしいまろやかな線を描く、白い肌が露になる。
「……真里野、お前絶妙だなあ」
 思わず七瀬を演じるのも忘れて、九龍は呆然と胸元を見下ろしてしまった。うわなんですかこのチラリズムは。そんなことよりしまった制服弁償しなきゃ、と思っているあたりは冷静である。
 刹那とはいえ完全に無防備になるが、それは真里野も同じだった。もちろん、九龍よりも大きな衝撃を受けたらしい。同じく呆然と絶句して、覗く柔肌に釘付けになっている。
「そうやって、服だけ切り裂いてくつもりか? このスケベ」
 にやりと笑ってやると、ぼん、と音を立てて真っ赤になった。隙あり。
 繰り出した槍に、けれど真里野は瞬時に反応した。木刀でそれを受け止めて、力で押してくる。力勝負ではどう考えても不利だ。
 払いのけるタイミングを計りきれずに押されていると、至近距離の真里野の目が、ふと裂かれたセーラー服の胸元に降りた。ああ男の本能か、哀しいね純情侍!
 力が緩んだ隙に、槍で弾き飛ばして突き刺した。呻き声と共に真里野が倒れ、とどめとばかりに振り下ろす。実際今の七瀬の姿は、あまり色気を感じさせない雰囲気だからこそ、傍から見れば壮絶な色香なのかもしれない。
 汗の浮いた色づく肌、戦いの高揚で乱れた息、合わせて上下する白い胸元。自分で客観的に見ることができないのが非常に残念だと思った九龍は、頭を振って妄想を追い出した。やべ、これ身体が男だったら反応してるかも。他人事じゃないよ真里野。
「む、無念……!」
 その一撃が必殺となったのか、真里野はそのままがくりと崩れた。動けないでいる彼の身体から、《黒い砂》が噴き出してくる。なんだこれは、と驚く真里野を引きずって、九龍は部屋の端に避難させた。砂が形を成し、大型化人の姿を取る。
 二つに割れた卵の舟に、ふわりと座った着物姿の奇妙な化人だった。呆気に取られていると、いつの間にか背後にコウモリが集まってきている。
「ち……ッ」
 振り向きざま、残ったガス手榴弾を投げつけた。爆風の中で聞こえた悲鳴を拾い、殲滅を確認すると同時に、九龍は踵を返して飛び出した。マシンガンを構える。笛の音がする。キン、と襲ってくる耳鳴り。
「七瀬殿!」
 衝撃によろめくと、悲鳴じみた真里野の声が聞こえた。だから俺は七瀬じゃなくて葉佩九龍なんだって、思いながらありったけの手榴弾を投げる。爆風に煽られながら、九龍は笑って考えた。
 確かに、真里野はさっきまで戦っていた敵だ。けれど案じて呼びかけられたその声は、独りで戦う自分を励ましてくれるような気がする。たとえ名前が違っても、気持ちは紛れもなく九龍に向けられているからだ。心配してくれる誰かがいること、それは何よりも幸せなことで。
 サンキュ、真里野。心の中で、そう思ってから。
「ありがとう、真里野さん」
 七瀬を演じて、笑いかけた。真里野が息を詰めるのがわかった。
『安全領域に入りました』
 《H.A.N.T》が化人の消滅を告げた。爆風の名残りが収まるのを待って、九龍はようやく息をつく。はらりと落ちて残されたのは、変色した古い手紙だった。
「……拙者の、負けだ……」
 うなだれたように呟いて、真里野は石の床に座り込んでいる。手紙を拾った九龍は、ついでにスカーフをちゃんと結び直した。よかった、なんとかチラリズム応急処置。
「大丈夫ですか、真里野さん」
 声をかけて、手紙を差し出す。受け取った真里野は目を見開いて、九龍を見上げて、ぎゅっと手紙を抱きしめた。
「まさか女子に敗れようとは―――いや、そなたに敗れたということは、葉佩九龍に敗れたということも同然」
 ……そ、そうなのかな。そりゃ確かに、お前が戦ったのは葉佩九龍だけどさ。
「拙者は、生まれてからずっと剣の道に生きてきた。ただ己を鍛錬するためだけに、修行に明け暮れる日々を送ってきた。己の技を高めるために、そして崇高なる道の果てをかいま見んがために。その悲願が、このような形で潰えることになろうとは……しかも策にはまったとはいえ、剣の道とは程遠い女子の手によって……」
 く、と唇を噛み締めて、真里野は木刀を握り締めた。
「不甲斐ないはこの腕よ。真里野家のご先祖様に合わす顔がないわ。かくなる上は、腹をさばいて自決するのみ―――
「え、おいちょっとそれは待て!」
 反射的に握り締めた手に、真里野の視線が九龍を見上げた。しばらく見詰め合って、握った手を見て、伝わる体温にようやく気づいたのか、一瞬にして赤くなる。……大丈夫だ真里野、そういう感情が健在ならまだ生きられるって。
「と、止めて下さるな、拙者は、拙者はァァァッ!」
 半ば誤魔化すような勢いで、真里野は叫んでがくりと伏せた。そのまま嗚咽を噛み殺すようにしている。えーと。
 俺が普通に葉佩九龍だったら、肩叩いて抱きしめて、励ましの言葉でもかけてやれるんだけど。七瀬月魅がそれやったら……真里野、憤死するだろうか。
「真里野さん」
 とりあえず、その肩を優しく叩いた。顔を上げた真里野に、にっこりと笑いかけてやった。それだけで頬を朱に染めた純情侍に、九龍は笑顔のままで七瀬を演じる。
「真里野さんが選んだ剣の道も、可能性の一つでしょう。けれどただ己のためではなく、誰かのためになら、人はもっと強くなれるということをご存知ですか?」
「誰かのため……」
 呟いて、真里野は呆然と九龍を見つめた。
「お主も、そうなのか。お主も、葉佩のために。葉佩を守るために……」
「え……えーと、はい、まあ、そんなところです」
 あいまいに誤魔化したが、真里野はそれで納得したようだった。
「……わかり申した。拙者もそなたと共にこの剣を捧げ、戦おうではないか葉佩のために!」
「いやあの俺、じゃねぇ、葉佩さんのためじゃなくてもいいんですけど!」
 思わず素で突っ込みそうになった九龍だが、そこは慌てて切り替えた。……あのさ、《執行委員》ってさ、解放されたら揃いも揃って俺のこと大げさに慕ってくれるというか崇拝対象にするというか、いや味方になってくれるのは嬉しいけどありがたいけど大歓迎なんだけど!
 改めて見つめてきた真里野は、どこか吹っ切れた様子で九龍に笑いかけた。
「拙者、そなたに出逢えてよかった……あ、いや、勘違いしないでくれッ! 別に深い意味で言ったわけではなく、これはその、う、うおっほん!」
 ―――ああ、惚れたな真里野。
 頬を染めて咳払いする様子を、九龍は微笑ましく眺めてしまった。ホントわかりやすいなお前と思いながら、それにしても、と考えてみる。
 もし普通に葉佩九龍として戦い、同じように倒し、同じように声をかけたとしても、そこに生まれるのは友情だっただろう。身体が七瀬月魅―――つまり女性だっただけで、真里野は自分に恋心を抱いた。
 じぶん、と呟いてみる。浮かんだ疑問に、九龍はわずか眉を寄せた。
 真里野の目は、一体誰を見ているのだろう。恋をしたのは七瀬月魅なのか、葉佩九龍を宿した七瀬月魅なのか。
「……戻りましょうか」
 何かがぼやけて、九龍は無理やり笑顔を作った。
「不思議だ……お主のような女子と葉佩に敗れ、拙者は何か生まれ変わったような気がする。ありがとう、いろいろと……」
 何かと九龍を気遣いながら戻ってきた墓地で、真里野は改めて礼を言ってきた。いいえ、と九龍は笑ってその言葉を受け止める。ではまた会おう七瀬殿、お気をつけて帰られよ。言って向けられた背中を見送る。―――彼は、最後まで七瀬月魅だと信じて疑わなかった。
「……葉佩九龍なんだけどな、俺」
 確かめるようにひとりごちた声が、虚しく墓地に吸い込まれる。七瀬扱いされたせいか、自ら七瀬を演じたせいか、本当に自分が七瀬であるような感覚が襲ってくる。違う、と力強く否定すると、ぐらりと境界が揺らいだ。―――境界? 何の?
「まさか、他人の身体でありながらあの剣に打ち勝つとはな」
 刹那、耳障りな声が闇から響いた。戦慄して、九龍は声の主を捜す。
「マリヤめ、口ほどにもない。《転校生》との対決の舞台を、わざわざ用意してやったというのに」
 続けられた台詞と共に、何かがふわりと降り立った。雲間に隠れた月が、その正体を隠してしまう。墓地に佇む黒い影。
「月も隠れた。《幻影》を見るにはいい夜だ」
「……誰だ」
 警戒心を露にして、九龍は低く呟いた。幻ではない。気配が不確かではあるが、そこにいるのは紛れもなく人間だ。五感がそう告げている。
「慌てるな……近いうちにまた我と会うことになる。今日は預かっていたものを返しに来ただけだ」
「きゃッ!」
「ヒナ先生!」
 押されるようによろめき出たのは雛川だった。目隠しをされてロープで縛られた姿に、九龍は慌てて彼女を支える。
「この女はお前とマリヤを戦わせるためにさらわせてもらった。お前の実力がどれほどのものなのか見極めるためだけにな。今となっては用もない、返してやろう」
「お前……!」
 この黒い影が雛川をさらい、真里野だと偽って自分にメールを寄越したのだ。睨みつける九龍の殺気を、影は笑って受け止めた。
「安心しろ、どこも傷つけてはいない」
 言って、光を一閃させてロープを断つ。ふいに身体が自由になった雛川の目が、驚いたように九龍を見つめた。
「そこにいるのは、七瀬さん? その格好は一体……」
「あ……えーと」
 アサルトベストにゴーグルにマシンガンに槍という妙な姿は、薄暗闇の中でもわかってしまうようだ。言い訳を考えていると、また影が笑った。その声に、雛川の意識がそちらに向く。
―――あ、あなたが生徒たちが噂してる、《ファントム》とかいう人ねッ? 天香學園を狙って何をしようと……!」
「先生!」
 今にも飛び掛ろうとしている気丈な雛川の腕を、九龍は思わず引き止めた。正体はわからないが、危険な存在には違いない。
「……葉佩九龍」
 影が、まっすぐこちらを見て言った。雛川が訝しげに見てくるが、九龍は構わず影を睨みつけたまま。
「お前の身体に起きた異変は、この學園を覆いつつある混沌がもたらした結果だ。お前には、《生徒会》を相手にもっと働いてもらう必要がある。同じ目的を持つ仲間として、な」
「……」
 何が仲間だ。怒鳴ってやりたかったが、雛川の手前押し殺した。押さえる手に力がこもってしまったのか、雛川が逃れるようにして声を荒げる。
「あなたは誰なのッ? 生徒に手を出したら―――
「この學園は呪われている」
「え?」
 雛川の台詞を奪って、影が淡々と告げた。
「見るがいい。《墓》をさまよい、地上へと這い出んと苦悶の叫びを上げる魂たちの姿を」
 それを合図に、墓の下から呻き声が聞こえたような気がした。何か得体の知れないものが、這い上がってくるような気配が。
「な、七瀬さん?」
 怯えたように、雛川が身体を寄せてくる。励ますべく握った九龍の手も、心なしか震えている。粟立つ肌。本能的な恐怖。―――なんだ、これは。
「《生徒会》を倒せ……《生徒会》を……」
 クククッと喉の奥を震わせて、黒い影が闇に溶けてゆく。待て、と言いかけた声が詰まり、視界が揺れ始める。いや、視界だけではなく。
「七瀬さん? どうしたの?」
「ではまた会おう」
「なッ、七瀬さん! しっかりして!」
 身体が傾いて、雲間から覗く月が見えた。影の高笑いと、心配そうに名前を繰り返す雛川の声がする。何かが自分を捕らえたような感覚。遺跡の深淵から伸びた手に、ずるりと引きずり込まれるように。さらわれる。さらわれてゆく。
 手放す意識の途中で、九龍が感じたのは水だった。ゆっくりたゆたう、温かい水。覚えているわけがないのに、羊水だ、とおぼろげに思った。




「蛋白質結晶化しました」
 ―――水の、音がする。
「酵素融合安定しています。第三培養槽の育種に蠕動」
 誰かの話し声がする。
「それでは、実験を次の段階に移行しろ」
「まだ時期尚早ではないか?」
「何を恐れている? 我々の計算に誤りはない」
 複数の声。無機質な声。水の中で揺れながら、自分は彼らの言葉を聞いている。
「何のために多くの披験体を無駄にしてきたと思っておるのだ」
「そうだ」
「我々には、もう時間が残されてはいない……」
「早く、培養槽を開けるのだ」
「早くしろ」
「全ての培養槽を」
「全ての培養槽を開け放つのだ」
 水の音。光。ゆらゆらと揺れる身体。視界が拓ける。網膜を射抜く。血が沸騰する。嫌だ。嫌だ。嫌だ、嫌だ嫌だ―――
 何かに向かって手を伸ばして、届かないことに絶望して、その絶望すらも霧散して、真の闇が訪れた。闇に混じった血の染みが、徐々ににじんで広がってゆく。赤く黒く沈んだ色は、心の底に澱のように蓄積されて。
「……」
 何かを呟いた、ような気がした。それはただの泡と化して、水面に浮かんで儚く消えた。壊れる小さな音さえも、自分の耳には届かなかった。
 ―――そして、虚無が来た。






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20130607up


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